史料批判による太子信仰研究
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「太子信仰」の記事における「史料批判による太子信仰研究」の解説
一方で昭和に至ると、文献批判に基づく太子像の検証が行われるようになる。津田左右吉は、憲法十七条や『三経義疏』の矛盾点を指摘し、太子伝の多くが太子を聖人化する目的で製作されたとした。津田の批判は戦時中の国家主義者を刺激し、津田は出版法違反で有罪となり早稲田大学を去る事となった。 戦後になると津田の影響を受けた研究者が史料批判に基づく太子研究を行う。特に太子信仰の研究は太子の実像に迫る方法に位置づけられ、小倉豊文は『聖徳太子と聖徳太子信仰』(私家版1963年)で、伝説上・信仰上の聖徳太子と歴史上の厩戸王が区別する重要性を説いた。田中嗣人は『聖徳太子信仰の成立』(1983年)で、その源を天武天皇に求めるなど体系的に太子信仰の成立過程を研究した。 そうした中で戦前の国家主義的な太子観に対する反省も行われたが、「和」の精神は民主主義・平和主義の象徴として再解釈され、太子は平和国家の歴史上偉人として装いを変えて描かれる事となった。その為、戦後にGHQが切手や紙幣に対して行った規制により戦前の偉人肖像が姿を消す中にあっても、太子の肖像は高額紙幣として1984年まで採用され続ける事となる。 戦後の太子への批判的な研究は、1990年頃に聖徳太子虚構説へと至る。大山誠一は『聖徳太子研究の再検討』(1998年)などで聖徳太子虚構説を唱え、その中で光明皇后と行信による史料の捏造により太子信仰が広まったとし、大きな反響を呼んだ。大山の虚構説は、鎌田東二・森田悌・石井公成らによって批判されているが、太子の実像は未だ研究の中で揺れ動いていると言える。
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