史料的価値が高い作
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/27 23:48 UTC 版)
「#起源および活動時期」も参照 津藩藤堂家の村正 石亭山人(石谷富次郎)が津藩藤堂家蔵刀の手入れの手伝いに行った時、二尺二、三寸ほどの村正の刀があって、応永(1394-1428年)の年号が切られていた。もし現物か押形が現存していれば、初代村正を1400年代前半とする説の物証になっていた。しかし、押形を取られる前に1923年の関東大震災で焼失し、真相は闇の中に消えた。 短刀〈銘 右衛門尉村正作之/文亀元年八月日〉 刃長八寸六分、岸本貫之助蔵、後に江原正一郎蔵。年紀が切られている村正としては現存最古、この作によって村正の活動期を文亀元年(1501年)まで遡ることができる。モノクロ写真『伊勢の刀工』所載。 刀〈銘 勢州桑名住右衛門尉藤原村正作/文亀元年九月吉日〉 二尺八分五厘、向井英太郎蔵。打刀としては、年紀入りの村正で現存最古。向井英太郎は亀山警察署長や神宮徴古館主事などを歴任した人物。押形『三重県刀工・金工銘鑑』所載。 刀〈銘 勢州桑名住右衛門尉藤原村正/文亀元年拾月日〉 二尺三寸四分、佐藤良信(山形県)蔵。重要刀剣。年紀入りとしては三つ目に古い村正。押形『三重県刀工・金工銘鑑』所載。 脇差〈銘 勢州桑名住東方村正/〉 一尺二寸。住所を東方(桑名市大字東方)と指定した珍しい村正で、出来も良い。押形『三重県刀工・金工銘鑑』所載。 指定名称「太刀 銘 勢州桑名郡益田庄藤原朝臣村正作 天文十二年五月 附 四弁花繋文錦包糸巻太刀拵(たち めい せいしゅうくわなぐんますだのしょうふじわらのあそんむらまささく てんぶんじゅうにねんごがつ つけたり しべんかつなぎもんにしきつつみいとまきたちこしらえ)」 桑名宗社蔵。 三重県指定有形文化財(2016年2月3日指定)。桑名神社・中臣神社。天文12年(1543年)の作で、2振りの太刀が同時に指定されている。1振りは75.9cm、佩表鎬地に「春日大明神」。もう1振りは75.8cm、「三崎大明神」。どちらも反り3.0cmで、鎬造、庵棟、目釘孔1個。茎(なかご)の銘はどちらも「勢州桑名郡益田庄藤原朝臣村正作/天文十二天<癸卯>五月日」。漆が塗布されているが、第二次世界大戦時の疎開のためだという。 指定名称「太刀 剣 銘 勢州桑名藤原朝臣村正作 天文二十二年九月(たち けん めい せいしゅうくわなふじわらのあそんむらまささく てんぶんにじゅうにねんくがつ)」 神館神社蔵(桑名市博物館保管)。三重県指定有形文化財(2016年2月3日指定)。太刀と剣の同時指定で、太刀は60.5 cm、剣は39.1 cm。太刀は〈勢州桑名藤原朝臣村正作/天文廿二年九月吉日〉の銘、剣は〈勢州桑名/藤原朝臣/村正作/天文廿二年九月吉日〉の銘、どちらも「神立」(=神館)の彫物がある。天文22年(1553年)の作で、太刀も剣も村正では珍しく、刀工がこれらを同時に寄進するのも文化史的に貴重な例。村正は神館神社の氏子だったという説もある。 脇差〈銘 勢州桑名住村正/慶長五子八月〉 一尺一寸七分五厘、金丸吉生蔵。慶長5年(1600年)の作で、伊勢の旧家金丸家から1982年12月に新発見され田畑徳鴦が報告したもので、慶長年間にも村正がいたことが初めて実証された。金丸吉生は百五銀行頭取などを歴任した人物。押形『三重県刀工・金工銘鑑』所載。 刀〈銘 村正/寛文元年辛丑八月吉日〉 62.5cm。焼身。寛文元年(1661年)の作。刀身表に梵字とゴマバシ樋、裏に梵字、剣、蓮花台の彫り物。太平洋戦争末期の1945年7月17日、B29による空襲で桑名宗社が被害を受けた時、松本正利が焼身となった宝刀の束から発見したもので、村正の現存作としては最も時代が下るものの一つ。妖刀伝説の風評被害を避けるために村正は江戸時代に正重に改名したという説があるが、この村正は同時期の正重と作風が全く違うので、村正改名説を否定する物証でもある。 寛文8年紀の村正 押形や詳細は掲載されていないが、田畑徳鴦の刀友が「寛文八年戊申」(1668年)の銘がある村正を持っているという。
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