起源および活動時期
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/27 23:48 UTC 版)
「#史料的価値が高い作」も参照 『関目録』(元和9年(1623–1624年))『桑名志』(天保6年(1835–1836年))などでは、初代村正は濃州関の出身とされる。実際、刃文に関伝の影響が濃厚なのは多くの古剣書で指摘されており、また、表に「兼永」と裏に「於関村正」と切ってある脇差がある(『新刀古刀大鑑』、1930年)ことから、説得力がある。『如手引抄』(慶安3年(1650-1651年))では、初代村正を濃州赤坂左兵衛兼村の子であるとするが、福永酔剣はこれを「村」の字が共通するから生まれた説だとしている(なお、この赤坂も孫六兼元など関物の刀工の居住地で有名である)。一方、千子を「千寿観音の子」とする桑名郷土の伝承では、美濃出身ではなく元から伊勢桑名出身となる。 年号の銘がある現存最古の村正は文亀元年(1501–1502年)のものであるが、実際はその時代よりやや古い作風を示すものもある。年号を切ったものは多くはないが、文亀(1501–1504年)から慶長(1596–1615年)にはかけては継続的に銘が見られ、おおよそこの時期は村正の確かな活動期であると考えられる。中には寛文(1661–1673年)の銘を切ったものもあるという。 佐藤寒山は初代村正を延徳(1489–1492年)・明応(1492–1501年)から永正(1504–1521年)にかけて活躍したとし、永正10年の銘がある「妙法村正」は初代の晩年の作だという。また、二代村正は天文初期(1532–1539年頃)から作刀を開始、三代村正は天正(1573–1592年)から、という。一方、福永酔剣は『全休庵楠系図』(#正重の節を参照)との整合性を重視して、初代村正は正長(1428–1429年)頃の人、前述の文亀元年の村正を作ったのは三代村正であるとする。 1934年の『伊勢新聞』の記事は、水谷長之助という人が、仏眼院の墓域で、千子新右衛門という人物の墓が土中に埋もれているのを発見し、そこには「千子宗入禅定門承応四乙亥年正月十六日」と記されていた、という事件を報じている(承応4年1月16日はグレゴリオ暦1655年2月22日)。その記事によると、元々、「隠音妙台」の戒名が刻まれた初代村正の墓など村正一族の墓が仏眼院にあったのだが、(記事の時点から見て)100年ほど前に村正の家が断絶して無縁仏になってしまったので、明治30年(1897年)頃に某有力者が土地を譲り受けて墓をほぼ撤去してしまったのだという。この記事が正しければ、村正の子孫が「千子」という姓で、1830年ぐらいまでは存在していたことになる。 また、前記の事件とは別に、明治末期の桑名に村正子孫を称する千子家が現れて、千子家初代は仲哀天皇の御代の肥前唐津島住人の千子正重で、千子村正は正重から数えて十九代目である、などという荒唐無稽な話を主張していた。
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