起源および王政時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/08 14:36 UTC 版)
凱旋式の起源と発展は不明な部分が多い。ローマの歴史家達は、最初の凱旋式を伝説時代に遡らせており、ある者はローマの建国にまで、ある者はさらに古いとしている。語源研究家は、兵士が繰り返し唱和する「トリンペ(triumpe)」は、ギリシア語の「トリアンボス(θρίαμβος)」(サテュロスがディオニューソス/バックス神のドンチャン騒ぎで歌う聖歌)がエトルリア語経由で伝わったと考えている。プルタルコスや他のローマの資料は、最初の凱旋式を初代の王ロームルスが、カエニア(en)の王アクロンに勝利した際(ローマ建国とされる紀元前753年と同じ頃)としている。帝政初期の詩人オウィディウスは、ディオニューソス/バックス神がインドを征服して帰還し、虎が引く戦車に乗り、マイナデスやサテュロス、その他の様々な酔っぱらいが取り巻くという、愉快で詩的な凱旋パレードを描いている。アッリアノス(2世紀のギリシアの政治家)は、ディオニューソス神の祭に加え、アレクサンドロス大王の凱旋式にローマ的な要素を加えたものと考えている。ローマの多くの文化がそうであるように、ローマの凱旋式もエトルリアとギリシアの影響を受けていた。特に、凱旋将軍が着用した紫色のトガは、王政後期ののエトルリア系王(最後の3代)のトガに由来すると考えられる。 現存する帝政時代に作られた「凱旋式記録(凱旋式のファスティ)」には欠落部分があり、王政時代のものも完全ではない。初代の王ロームルスの二度の凱旋式の後、11行が欠落している。次の記録は第4代の王アンクス・マルキウス、第5代タルクィニウス・プリスクス、第6代セルウィウス・トゥッリウス、そして最後の王タルクィニウス・スペルブス(傲慢王)の凱旋式である。ファスティは王政時代からすると5世紀も後に作られたものであり、おそらくは公的に認められていた記録をいくつかの資料から集めて編纂されたものと思われる。同様に、現存する最古の王政時代の記録も、数世紀後に書かれたものであり、異なる伝承や功績を議論、再構築したものである。たとえば、ハリカルナッソスのディオニュシオスは、ロームルスの凱旋式を三度としているが、ティトゥス・リウィウスは一度も実施していないとし、その代わり最初のスポリア・オピーマ(敵の王や最高指揮官を一騎打ちで倒したものだけに贈られる最高の栄誉)の栄誉を与えている。倒した敵の武器と甲冑は、ユピテルに捧げられた。プルタルコスはロームルスの凱旋式は一度とし、戦車が使われたとする。タルクィニウス傲慢王は、「ファスティ」では二度の凱旋式を実施したことになっているが、ディオニュシオスは実施していないとしている。第二代の王で平和愛好家であったとされるヌマ・ポンピリウスが凱旋式を実施したという古代の記録は無い。
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