初期の詩
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/10 21:32 UTC 版)
ダンの初期の詩はイングランドの社交界に鋭い批評を向けたものだった。法体系の堕落、二流の詩人、尊大な廷臣といったエリザベス朝のよくある出来事をテーマにしたダンの風刺詩は、知的洗練さときわだったイメージ(病気、嘔吐、肥やし、ペスト)がずば抜けていた。その中でも『風刺詩III』はダンにとって大変重要なテーマ、つまり真の宗教の問題を扱っていた。ダンは、既定の伝統に盲目的に従うよりも、人の宗教的信念を慎重に検討するべきだ、なぜなら「A Harry, or a Martin taught [them] this(ハリーとかマーティンとかがそう教えた)」と言ったからといって最後の審判で救われるものは誰もいないから、と主張した。 ダンの初期の詩、とくにエレジーには、エロティックな詩が多かった。たとえば、『蚤(The Flea)』という詩では、型破りなことに、恋人たちの血を吸う蚤がセックスのメタファーに使われている。エレジー19番『To His Mistress Going to Bed(寝ている愛人に)』では詩的に恋人の服を脱がせ撫で回す行為とアメリカ州探険を、エレジー18番では恋人の息とヘレスポント(ダーダルネス海峡の古称)を対比さえた。ダンはそれらの詩を出版しなかったが、写本として広く巡回することは認めた。 当時恋愛詩が大変流行していたため、ダンが書いた情熱的な恋愛詩が妻アンに向けられたものかどうかについては異論があるものの、そうだったとしても不思議ではない。なぜならアンの結婚生活のほとんどは妊娠と育児に費やされたほど、2人の間には強い肉体の関係があったからである。しかし、そのアンは1617年8月15日、死産児(16年の結婚生活で12人目の子供)を生んだ5日後に亡くなった。その時、悲しみにうちひしがれたダンが書いたのが、17番目の「聖なるソネット」である。ダンはアンの死を深く悼み、二度と結婚はしなかった。ダンには養うべき多くの家族がいたにもかかわらず、これは当時としては大変珍しいことだった。
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