初期の試みと挫折
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/05 00:26 UTC 版)
「エンタープライズ (CVN-65)」の記事における「初期の試みと挫折」の解説
一方、「ユナイテッド・ステーツ」の検討過程の1946年より、航空母艦の原子力推進化が検討されはじめており、1952年度で建造予定だった同型艦では原子力推進化が期待されたものの、これは実現しなかった。その後、1950年8月、海軍作戦部長(CNO)フォレスト・シャーマン大将は艦船局(BuShips)に対し、空母の原子力推進化に関するフィジビリティスタディを指示した。 1951年には空母用原子炉の正式な要件定義が作成された。この時点で、海軍は既に潜水艦用原子炉(後に「ノーチラス」に搭載されるS2Wの原型機)を開発していたものの、まもなく、空母のためには全く異なる設計が必要になることが判明し、予算の見積もりは高騰し始めた。海軍部内では、燃料の搭載余地が多い空母よりは、潜水艦や駆逐艦の原子力推進化のほうが優先するとの意見も強く、アイゼンハワー大統領は国防費削減を重視しており、そして原子力空母計画の後援者だったシャーマン提督は1951年に死去していた。この結果、原子力委員会(AEC)は1953年に空母用原子炉の計画を中止した。
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