初期の調査と計画
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/14 17:54 UTC 版)
「ケープコッド運河」の記事における「初期の調査と計画」の解説
このような運河を建設しようとする最初のアイデアは1623年、プリマス植民地のマイルズ・スタンディッシュによって構想された。ピルグリム(英国からの初期移民。多くは清教徒)達はマノメット川とスカセットの諸河川の間の低地の潜在的に運河のルートになりうる河川の実地調査を行なった。プリマス植民地総督ウィリアム・ブラッドフォード(英語版)は1672年、川の間の連水陸路沿いにアプタックゼットトレーディング・ポスト(英語版)(入植者と先住民の交易所)を設置した。ナラガンセット湾の先住民および当時繁栄していたニューネーデルラントのオランダ人との交易は、ピルグリム達が負っていた債務を返済することを可能にした主要因であった。1697年、マサチューセッツ州議会(英語版)は運河を建設するための最初の提議を審議したが、明らかに何の行動も取らなかった。1717年、オーリーンズ(英語版)にジェレマイアーズ・ガタ(英語版) (Jeremiah's Gutter) と呼ばれる運河が開削された。これはコッド岬の東側の(ケープコッド運河より狭い)地峡部を通るものだったが、1800年代後半を最後に廃れてしまった。1776年(ジョージ・ワシントンによる)、1791年、1803年、1818年、1824年–1830年および1860年と測量を伴う、より精力的な計画が繰返し策定された。しかし、これら諸計画のうち実行に移されたものは一つも無かった。実際に運河を建設する試みは19世紀後半まで待たねばならなかった。初期の計画者達は資金不足であったか、プロジェクトのサイズに圧倒されていたのである。1870年、ケープコッド・シップ・キャナル・カンパニー (Cape Cod Ship Canal Company) が設立され運河開削を試みるも、10年間まったく着手できず、挙句、集めたイタリア系労働者の争議により潰えた。この会社は1883年の組織改革後、サンドウィッチ付近で散発的に2.1キロメートルの運河開削を行っている。その後1909年までの期間に行われた運河開削の試みはすべて失敗に帰した。 技術者達は最終的にマノメット川とスカセットの諸河川を拡げて接続することによって、丘陵地を通り抜けていくルートに決定した。
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