し【師】
読み方:し
[音]シ(呉)(漢)
3 人を教え導く人。先生。「師事・師匠・師弟・師範/恩師・教師・講師(こうし・こうじ)・先師・祖師・導師・法師・牧師・老師」
し【師】
師
名字 | 読み方 |
師 | もろ |
師
姓 | 読み方 |
---|---|
師 | もろ |
師 | もろさき |
師
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/20 00:50 UTC 版)
日印が8歳の文永8年(1271年)、佐渡ヶ島(佐渡国、現在の新潟県佐渡市)へ流される途上で越後国寺泊に来ていた日蓮に会ったことがあるという。そこで日蓮に摩訶一丸の名を授けられた。摩訶一丸が後に僧となり、正しい仏法を求めて日本の諸国を巡った時、既に日蓮は他界したと知った。そのため、日印は日蓮の弟子で六老僧の一人である日朗に師事した。そこで法華経の教えを極め、学識を得た。
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師
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/20 08:20 UTC 版)
藤原惺窩儒学の師。 渋江正真兵法を小幡景憲より学び良庵に伝えた、あるいは、北条氏長からその著である兵法書「師鑑」を伝えられ良庵にこれを伝えたという。渋江の多数の弟子のうち、良庵は「第一の者」であったとされる。渋江の門人・戸田実縄は、対馬府中藩に仕え、この学統は同藩にて続いたが、戸田実縄の子孫・戸田暢明が記した『本家兵法来歴』によると、この系統においては、北条氏長の『師鑑抄』を中心に、良庵の『高名穿鑿帳』なども伝書として伝授の対象とされた。 北条氏長甲州流軍学を大成した小幡景憲の弟子で、北条流軍学の祖。良庵は氏長の弟子という。良庵は、小幡景憲、北条氏長両者の編になる『高名穿鑿帳』を補遺している。
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師
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/19 02:50 UTC 版)
師参照。
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師
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/03 04:44 UTC 版)
「フェルディナント・リース」の記事における「師」の解説
フランツ・アントン・リース(1755年 - 1846年) 父。少年期のヴァイオリンとピアノの師。 ベルンハルト・ロンベルク(1767年 - 1841年) 少年期のチェロの師。のちに北欧・ロシアを共に巡演する。 ヨハン・ティルマン・フォン・ペルツァー(Johann Tilmann von Peltzer, 1739年生まれ) ドイツのオルガニスト。 ペーター・ヴィンター(1754年 - 1825年) ドイツの作曲家。 ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン(1770年 - 1827年) ピアノの師。 ヨハン・ゲオルク・アルブレヒツベルガー(1736年 - 1809年) 音楽理論と作曲の師。
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師
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/27 23:48 UTC 版)
「#合作刀」も参照 前述した通り(#起源および活動時期)、初代村正は美濃関出身とする古伝と美濃赤坂出身とする古伝がある。関は当然のこと、赤坂も孫六兼元ら関物の刀工が在住していた地である(赤坂は赤坂千手院派もいた一大生産地だった)。村正の刃文には関伝の影響が濃いことが昔からよく知られていて、さらに表「兼永」裏「於関村正」の銘の刀があるなど、末関との繋がりは相当に強いと考えられる。この兼永と村正の合作刀は、村正が関の兼永を訪ねて打ったもので、地鉄・茎・鑢目などほぼ関風、刃文だけが村正風という作品になっている(裏銘は「打関村正」であるとも言われる)。また、村正の「正」の字は、坂倉関の一派(正吉・正善・正利など)と酷似し、関係があると言われている。小笠原信夫は、村正は和泉守兼定と技術的交流があったのではないか、としている。和泉守兼定の側が村正の弟子だったとする説もある(#その他の弟子)。 また、平安城長吉にも師事したとする説がある。京の長吉は建武から承和にかけて「六角京極住菅原長吉」と銘を切った刀工を初代とし、二代以降は「平安城長吉」と切り、三条吉則の子が永正(1504–1521)頃に五代長吉を襲名、京から度々出向して奈良・三河・伊勢に駐槌したことがある。小城藩鍋島氏に伝わる妙法村正(1513年)の倶利伽羅彫刻は、長吉の一派を彷彿とさせる優れた出来栄えであり、佐藤寒山はここからそういう説が生じたのであろうと考えている。『如手引抄』は長吉が村正に師事したとするが、福永酔剣は事実はその逆で村正の側が五代長吉に師事したのであろうという。日本刀剣博物技術研究財団は、村正の一派と長吉の一派には継続的な技術交流があり、ある代の長吉に初代村正が師事し、その後、二代村正に別の代の長吉が師事したのだとしている。 広く流布した説として、初代村正は相州五郎入道正宗の門人であったとする伝説が室町時代末期から既にあり、講談を通して一般に信じられるに至ったが、余りに年代に開きが有り過ぎて事実とは考えられず、完全な創作である。また、仮に村正が正宗に師事していたとしたら、師の「正」字を名前の下に置くのは偏諱の慣例からして侮辱にあたり、到底有り得ないことである。村正に特徴的なタナゴ腹と呼ばれる茎は、相州伝にも多く見られるもので、そこから伝説が作られた可能性はある。
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師
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/15 04:21 UTC 版)
「周易上経三十卦の一覧」の記事における「師」の解説
師(し、shī)は六十四卦の第7番目の卦。内卦(下)が坎、外卦(上)が坤で構成される。通称「地水師」。師は軍隊の意味であり、序卦伝によると、あらそいがあると大衆が立ち上がるので、訟の次に置かれるという。
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師
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/10/18 23:46 UTC 版)
前述の通り、高松には3人の師がいた。水田芳太郎忠房からは高木楊心流を、石谷松太郎隆景からは高木楊心流や九鬼神伝流、義鑑流を、戸田真竜軒正光からは神伝不動流や戸隠流、玉心流や雲隠流、虎倒流や玉虎流を、それぞれ習った。
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?師
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/16 22:37 UTC 版)
「ワールド・デストラクション」の記事における「?師」の解説
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師
師
師 |
「師」の例文・使い方・用例・文例
- 少年は具合が悪そうにしていたが,医師はそれが演技だと知っていた
- 道化師の芸
- 非常勤の講師
- 聴衆は奇術師の手品をおもしろがった
- 2,3の欠点を別にすれば,彼は信頼できる教師だ
- 我々は教師と制服の着用について議論をした
- 宣教師
- 教師として,生徒たちが自分の夢を達成する手助けをするのが私の務めだ
- 彼女は歯科医師会の会長だ
- 彼女には2人の看護師がついている
- その看護師はずっとその患者に付き添っている
- 曲芸師は棒で慎重にバランスを取りながらぴんと張ったロープの上を進んだ
- 腕のいい理容師
- その講師は予約で一杯だ
- 猟師は巨大な熊を一発でしとめた
- ジョーンズ医師が真夜中まで待機しています
- 教師としてではなく,父親として話しているんだ
- 学生たちには教師に反論するりっぱな言い分があった
- 漁師たちは大量の捕獲高を自慢した
- 技師長,機関長
「師」に関係したコラム
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株式分析の酒田五法は、江戸時代の相場師、本間宗久によって考案された投資術です。酒田五法には、「三山」、「三川」、「三空」、「三兵」、「三法」の5つの法則があります。▼三山三山は、チャートの高値圏に出現...
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