史料的典拠とは? わかりやすく解説

史料的典拠

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/02 08:58 UTC 版)

足利頼氏」の記事における「史料的典拠」の解説

^ a b c d 『吾妻鏡』宝治元年3月2日条。 寳治元年三月大二乙卯今曉寅刻。足利宮内少輔泰氏室卒去是左親衛妹公也云々今日可摺寫不動慈慧大師像之由。被仰政所之間。有其沙汰云々。この記事から、左親衛(=北条時頼)の妹が足利泰氏となっていたことが窺える『尊卑分脈』北条氏系図上で北条時氏(從五下・修理亮)の娘(=時頼の妹)の項に「源頼氏母」と明記されており(『尊卑分脈』国史大系本〉第4篇 p.18)、足利氏系図でも足利頼氏傍注に「母修理亮平時氏女」との記載見られる『尊卑分脈』国史大系本〉第3篇 p.251)。従って、この女性は泰氏の妻となって頼氏を生んだ、頼氏の母であったことが明らかである。『吾妻鏡』記事従えばこの女性は兄の時頼が生まれた安貞元年1227年以後、父の時氏が寛喜2年1230年)に28歳亡くなるよりも前に生まれたことになり、仮に時頼と同年生まれだとしても数え年14歳で頼氏を生んだということになる。 ^ 米沢市中条所蔵桓武平氏諸流系図」(『奥山史料集』)、「入来院家所平氏系図」。詳細本文参照。 ^ a b 『尊卑分脈』足利氏系図上で頼氏の子・家時の傍注に「母家女房上杉蔵人重房女」とあり(『尊卑分脈』国史大系本〉第3篇 p.251)、上杉氏系図上で重房女子に「足利伊与守源家時母」と注記している(『尊卑分脈』国史大系本〉第2篇 p.133)。 ^ a b c d 『吾妻鏡』弘長元年1261年1月1日条に「治部大輔頼氏」と見え、『吾妻鏡人名索引』や吉井論文では、時期の近い正元2年/文応元年1260年2月20日治部大輔」、弘長元年1月7日治部大輔」、弘長元年7月29日治部大輔」を「治部大輔頼氏」と同一人物として扱っている。尚、「治部大輔」は治部大輔権官、すなわち大宝・養老令定められ定員以外に仮に任ぜられた治部大輔のことであり、正官になると「治部大輔」となる。『瀧山寺縁起』「温室番帳」の頼氏卒去記事にも「治部大輔源頼氏」(本文参照)と記されていることから、弘長元年1月7日から7月29日の間に「治部大輔」から「治部大輔になった考えられる。 ^ a b 「深掘記録証文」(正嘉3年2月20日付「関東御教書」、『鎌倉遺文第11巻 p.337 8349号)。 ^ 『経俊卿記』〈図書寮叢刊〉(宮内庁書陵部1970年)p.400。 ^ 『鎌倉年代記』文永10年条、『関東評定衆伝』建治3年条 ^ 『鎌倉年代記』弘安6年条、『武家年代記』弘安6年条 ^ いずれも関東評定衆伝』弘長3年条に拠る。 ^ 『吾妻鏡』寛元2年8月15日条。

※この「史料的典拠」の解説は、「足利頼氏」の解説の一部です。
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