史料上の問い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/09/08 06:42 UTC 版)
14世紀後半にポジーリャがリトアニア大公国に組み込まれた問題に関して、歴史家のДмитрий Ващукは、多数の研究調査にも係わらず、会戦の日時、場所、その全体像が正確には究明されていないと指摘する。 青水の戦いに関する最初の研究上の問いは16世紀末に提起された。ポーランドの歴史家マチェイ・ストリコフスキイは、1577年に著わし、400年後の1978年にワルシャワで出版された『光栄且つ高潔なリトアニア、ポーランド、ジェマイティア、ルーシ・・・の国民についての始まり、起源、行いについて』(ポーランド語: O początkach… sprawach rycerskiego sławnego narodu litewskiego…)にて会戦について手短に解説し、その年代は1329年であると記述している。1582年にケーニヒスベルクで出版された『ポーランド、リトアニア、ジェマイティア及び全ルーシの年代記』 (ポーランド語: Kronika Polska, Litewska, Żmudzka i wszystkiej Rusi)にてストリコフスキイは会戦が与えた多大な影響について割き、その年代が早くも1331年であったと記述している。 会戦の年代と場所は19世紀から20世紀初頭にかけて歴史家の議論の的となった。ヴォロディーミル・アントノヴィチは1878年にキエフで出版された『15世紀までのリトアニア大公国史の概説』にて 「1362年にアルギルダスは青水の川岸にてクトゥルベグ、ハジ・ベイ、ディミタール以下3人のタタールの公に対して徹底的な勝利をおさめた。アルギルダスがジョチ・ウルスを撃破したことを受けクリミアの一部、ドブロジャの一部及びポジーリャはその支配から離れてリトアニアの支配権に移った」と記述している。アントノヴィチは法制史家ミハイル・ヤシンスキーの著作『リトアニア=ルーシ国家の規約に乗っ取った地方文書』(1889年にキエフにて出版)及びフョードル・レオントヴィチの著作リトアニア=ルーシの法制史概説。リトアニア国家の領域の教育』(1894年にサンクト・ペテルブルクにて出版)を支持している。 マトベイ・リュトフスキイ はその著作『初期リトアニアの法律が出版された時期のリトアニア=ルーシ国家の地方分割及び地方行政』(1892年にモスクワにて出版)及び『ルブリン合同までを含めたリトアニア=ルーシ国家の法制史』(1910年にモスクワにて出版)にて青水の戦いの日付に関する二者一択的な考えを述べている。マトベイは「アルギルダス大公が1363年に青水にてタタールのハンを破った後にポジーリャはカリヨタスの息子が占領することとなった」とし、彼の地では「地方のルーシの住民が自らの首領に対して貢税を支払っていた」と指摘する。会戦の年代を1363年に確定することは ミハイル・グルシェフスキイによってなされている。『ウクライナ=ルーシの歴史』の第4巻(1907年にキエフ及びリヴォフにて第二版が出版) で 「結局のところ、結論は1363年であることに甘んぜざるをえない。アルギルダスはタタールとの戦闘に突入してキエフ南方に遠征してタタールを撃破し、この事件と関連する真実性の高いこととして正式にキエフとポジーリャを占領下においたのである」。 1997年と1998年にキロヴォフラードで開かれた二つの学術大会で青水の戦いが明らかにされた。このウクライナ歴史研究所での会議の資料は2005年に『青水の戦いの問題に関する最新の研究』(ウクライナ語: Синьоводська проблема у новітніх дослідженнях)の論文集として出版された。 どのタタールの公(特にルーシの公及びドブロジャのベイとして見做されているドミトリーとの関係について)に対して勝利したかについて研究者は異なる意見を述べている。ショルツェルの報告を基にした最も根拠のある仮定がなされた。それは年代記には残っていない情報に基づくもので、アルギルダスが1396年にドン川付近にてクリム、キルケリ、モンロプのハンを破ったと報告されている。クトゥルグがソルハタの統治者であったことは、ジェノヴァの歴史家によって何度も記述されていることから十分かつ正確に確定されている。他方、ジェノヴァの条約文ではクリミアのソルハタの長としてKothlobegの名が言及されている。1380年の別の条約ではアミールは偽りの名でElias 、イナクの息子 Cotlobogaとして記述されている。マングパの統治者ドミトリーを6870 年(1361年 -1362年)の署名に言及されている ἑκατοντάρχος («百人隊長») クイタニイ (ドミトリー)とを大変注意深く同一視する。キルク=エレはこの時ヤシュラウ家のベイによって統治されたことで知られているが、その名は知られていない。
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