史料の矛盾点
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/09/24 02:43 UTC 版)
2つの史料が主に挙げられる。ひとつはアングロサクソン年代記、もうひとつは西サクソン王族系譜目録 (West Saxon Genealogical Legnal List) である。 アングロサクソン年代記とは、過去の年表を結集させた書物であり、890年ごろアルフレッド大王の治世に校了した。書物は今では現存しない過去の年表だけでなく、長く口頭にて伝承されたサガを書き留めたものもある。この年代記では西サクソン族のブリテン上陸は495年となっており、チェルディッチと息子キュンリッチが「チェルディッチの岸」に到着したと伝える。20年の年代はチェルディッチの率いた戦いで占め、チェウリンの子孫によるものも後の100年の年表の中に散りばめられている。チェウリンに関する情報は、ほぼこの年代記によっているいが、この年代記に記される項目の多くは、史実性が疑問視されている。 西サクソン王族系譜目録とはウェセックスの王、およびその在位の目録である。この目録はある程度の形を保って、例えば、アングロサクソン年代記の(B)写本の前置きとなって、残っている。年代記と同じようにこの目録はアルフレッド大王の頃に編纂された。目録も年代記も、ともに西サクソン王の系譜がチェルディッチを通じて、祖先ゲウィスに直系で行き着くように執筆者の思惑の影響を受けている。結果として写本の政治的な目的を果たすことになったが、歴史家が矛盾に悩まされることにもなった。 このことは別の史料から年代を割り出したときに顕著になって現れる。西サクソン王国の歴史の中である程度信憑性のある出来事のうち、最も古いものは、キュネイルスの洗礼であり、年代にして630年代後半から遅くても640年代の頃になる。年代記でのチェルディッチの上陸は495年となっているが目録の王の在位を入れて計算するとチェルディッチの統治は532年に始まり37年の開きがある。しかし、532年も、495年も確実性のある年代ではない。あくまでも途中で執筆者が実在する王を削ったり架空の王を増やしたりしていないことと年代記に記された王の在位が正確であることが前提になった値である。そのどれもが確実な推測とはいえない。 また、史料はチェウリン自身の治世の長さにも食い違いを見せている。年代記では560年から592年の32年間としているが、目録では違っており、7年または17年となっている。最近の西サクソン王国王族目録の研究では西サクソン族のブリテン到着は538年、チェウリンの治世は7年という意見が支持され、581年から538年としている。 チェウリンがキュンリッチの息子であることは、史料によって差はない。クスウィンの父であると普通書かれているが、ここでもひとつ相違が見られる。(A)写本では685年にチェウリンの息子にクタの名が記されているが、同じ写本の855年にクタがクスウィンの息子として記されている。また、(E)写本の571年、(F)写本の568年にそれぞれクタはチェウリンの兄弟であると記されている。 チェウリンがチェルディッチの子孫であるかどうかも議論の対象となっている。異なる西サクソン族の小さな集団ごとの系譜の記述が全く個別の集団を思わせ、また、チェウリンの名もその中に入っている。なぜウェセックスの系譜に幾分か問題が生じたかという理由として、チェウリンの系譜を他の系譜とつなぎあわす必要があったからと思われる。それは、自らの系譜がチェルディッチとつながっていることは当時の西サクソン王国では重要な問題であったからである。もうひとつの理由として、民族言語学上の立場から、初期の王族の名前の起源がゲルマン系と思われないからである。『チェウリン(Ceaulin)』という名前もアングロサクソン起源とは確信できない。むしろブリトン起源に思われる。 また、最古の文献には「西サクソン」という語句は使われていない。ベーダの「イングランド教会史」によれば「西サクソン」という語は「ゲウィス」と同じ意味を持っている。「西サクソン」は7世紀後半、キャドワラの治世になって初めて現れる言葉である。
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