結婚と社会環境
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/02 06:39 UTC 版)
ミシア・セールを描いた絵 アンリ・ド・トゥールーズ=ロートレック「ミシア」(1897) ピエール=オーギュスト・ルノワール「ミシア・セール」 トゥールーズ=ロートレックが『ラ・ルヴュ・ブランシュ』表紙に描いたミシア 21歳のとき、ミシアは20歳のいとこでポーランドからの出国者であるタデ・ナタンソンと結婚した。ナタンソンはしばしばパリの芸術的・知識的サークルに現れた。彼は友人のレオン・ブルムやドレフュス支持者とともに社会主義を理想とする政治的信条を持っていた。サン=フロランタン通りの自宅はマルセル・プルースト、クロード・モネ、ピエール=オーギュスト・ルノワール、オディロン・ルドン、ポール・シニャック、クロード・ドビュッシー、ステファヌ・マラルメ、アンドレ・ジッドといった指導的文化人の集会所になった。娯楽は贅沢だった。アンリ・ド・トゥールーズ=ロートレックはナタンソンのパーティーでバーテンダーをつとめることを楽しみ、色あざやかに層をなした酒で「プース・カフェ」と呼ばれた強力なカクテルで有名になった。人々は主催者の魅力と若さに魅了された。1889年、ナタンソンは新しい才能を育て、ポスト印象派であるナビ派の作品を紹介するための雑誌『ラ・ルヴュ・ブランシュ』を創刊した。ミシアはこの雑誌のミューズでシンボルとなり、トゥールーズ=ロートレック、エドゥアール・ヴュイヤール、ピエール・ボナールによる広告ポスターのモデルになった。ルノワールによるミシアの肖像はテート・ギャラリーが所蔵している。 マルセル・プルーストはミシアを実話小説『失われた時を求めて』の登場人物であるヴェルデュラン夫人の原型として使用した。 ナタンソンの『ラ・ルヴュ・ブランシュ』は彼の政治的行動と結びついており、それには大量の資金を必要としたが、ナタンソンひとりでは資金を供給できず、後援者を必要とした。ナタンソンは新聞界の大物で、パリの主要な新聞である『ル・マタン』の創刊者であるアルフレッド・エドワーズに接近した。エドワーズはミシアに魅了され、1903年に彼女を自分の情婦とした。エドワーズはスポンサーになる条件としてナタンソンが妻を手放すことを求めた。 1905年2月24日、ミシアはアルフレッド・エドワーズの妻になった。ミシアと新しい夫はテュイルリー宮殿に臨むリヴォリ通り(英語版)の家で豪奢な生活を営んだ。ここでもミシアは芸術家、作家、音楽家を自宅でもてなした。モーリス・ラヴェルは『博物誌』のうちの「白鳥」と、ずっと後に『ラ・ヴァルス』をミシアに献呈した。有名なオペラ歌手のエンリコ・カルーソーが聴衆をナポリの歌で楽しませる間、ミシアはピアノで伴奏した。しかしエドワーズは不実な夫であることがわかり、1909年に離婚した。 1920年、ミシアはスペイン人の画家ホセ=マリア・セール(英語版)と3度めの結婚をした。このころ彼女は文化的調停者として君臨するようになり、それは30年以上にわたって続いた。ポール・モランはミシアについて「天才の収集家で、彼らすべてはミシアを愛していた」と記した。「ミシアが会おうと思うには才能を持たなくてはならない」と認識されていた。ミシアのサロンにおいてエリック・サティがピアノで『梨の形をした3つの小品』を演奏しているのを聴いている最中に、集まった客はサラエボ事件のニュースを聞かされた。 セールとの結婚生活は感情的に波乱を含んでいた。夫はロシア貴族のムディヴァニ家の一員であるイザベル・ルサダナ・ムディヴァニ、通称「ルシー」と関係を持った。ミシアは夫が他の女と関係を持つことに慣れようとつとめた。またミシア自身もルシーと関係を結んだ。しばらくの間、3人は三人婚の関係を維持した。しかし、結局1927年12月28日に離婚した。 セール家の交友範囲にはボヘミアンのエリートや社会の上層階級を含んでいた。道徳的に自由な人々の集まりであり、感情的・性的な密通がはびこっていた。それはさらに薬物の使用や乱用によって火をそそがれた。ミシア・セールは女優セシル・ソレル(英語版)の家でファッションデザイナーのココ・シャネルと会い、永続的な関係を結んだ。1919年12月22日にシャネルの愛人であるアーサー・カペルが自動車事故で死亡した時、残されたシャネルに感情的支援を提供した。ミシア・セールとシャネルの関係は似た魂をもつ者どうしの絆であり、セールは「シャネルの天才、致命的な機知、皮肉、狂気の破壊性がすべての人々の興味をそそり、驚かせる」点に魅かれていた。ともに修道院で育てられた2人は友人としての関係を維持し、興味、信頼、薬物使用を共有した。 ミシアは困窮した友人に対して気前がよく助けを惜しまなかった。詩人ピエール・ルヴェルディがソレムのベネディクト会修道院に閉じこもるための資金を必要としたとき、ミシアは財政的支援を行った。ミシアは長期にわたってセルゲイ・ディアギレフと共同し、バレエ・リュスのダンサーたちとの友情から衣裳デザインに関する提案や振付に到るまで、すべての創造的な面にかかわり、しばしば財政的困難に陥ったこのバレエ団のために資金を供給した。『ペトルーシュカ』の初演の夜には、衣裳の差し押さえを防ぐために必要な4000フランをミシアが提供した。ディアギレフがヴェネツィアで死に瀕しているとき、ミシアはその傍にいた。1929年8月にディアギレフが没すると、葬儀の費用を払い、バレエ界にきわめて重要な影響を及ぼしたこの人物の栄誉をたたえた。 ミシアは第二次世界大戦中のナチスによるパリ占領を乗り切った。彼女の交友仲間のうちのある人々は戦時中の行動や忠誠心が有罪とはいえないまでも疑わしかったのに対し、彼女は人格に対する重要な非難を受けることはなかった。 1950年10月15日、パリで没した。
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