結婚と画家としての出発
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/15 05:16 UTC 版)
「ヨハネス・フェルメール」の記事における「結婚と画家としての出発」の解説
フェルメールは、1653年4月5日、カタリーナ・ボルネスという女性と結婚したが、彼の父に借金があったことや、彼がカルヴァン派のプロテスタントであるのに対して、カタリーナはカトリックであったことなどから、当初カタリーナの母マーリア・ティンスにこの結婚を反対された。デルフトの画家レオナールト・ブラーメルが結婚立会人を務めている。 この8か月後に聖ルカ組合に親方画家として登録されているが、当時親方画家として活動するには6年の下積みが必要だったため、これ以前に誰かの弟子として修業を積んだはずだが、師事した人物については不明。カレル・ファブリティウスとの説もあるが、確証がない。なお修業地はデルフト以外の場所だった模様。新婚当初はメーヘレンにて生活していたが、しばらくしてカタリーナの実家で大変裕福な母親とともに暮らしを始めている。この理由はよく分からないが、カレル・ファブリティウスも命を落とし、作品の大半を焼失させた1654年の大規模な弾薬庫の爆発事故が原因とする説がある。彼らの間には15人の子供が生まれたが、4人は夭折(ようせつ)した。それでも13人の大家族であり、画業では養うことができなかったため、裕福な義母マーリアに頼らざるを得なかったと思われる。
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