日本の開国と近代競馬のはじまり
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/01 18:19 UTC 版)
「横浜競馬場」の記事における「日本の開国と近代競馬のはじまり」の解説
1853年(嘉永6年)にペリー提督が率いるアメリカ東インド艦隊が日本の開国を求めて浦賀沖に来航したことを契機として、翌年に江戸幕府との間で日米和親条約が締結。その後1858年(安政5年)に締結された日米修好通商条約により、横浜が1859年(安政6年)に開港された。条約に規定されていた開港場は東海道の宿場であった神奈川(現在の神奈川区神奈川本町から青木町付近)だったが、当時は小さな漁村に過ぎなかった横浜が選ばれた。その理由は、外国人と攘夷派(外国人排斥派)との衝突を恐れた江戸幕府が、代替地として往来の多い東海道からやや離れた場所に位置する横浜一帯を整備したためとされている。こうして横浜に外国人居留地が設けられ、関内居留地(現在の山下町)や横浜新田(現在の中華街)、太田屋新田(現在の横浜市役所・横浜スタジアム付近)が埋め立てられて居留地に組み込まれ、市街地として整備・拡充されていった。 開港後に来日した外国人によって、日本には様々な西洋文化が持ち込まれた。その中の一つが競馬をはじめとする西洋式の馬文化であった。日常のレクリエーションとして競馬や乗馬を楽しんでいた彼らは競馬に対する情熱が高く、日本でも母国と同様に競馬や乗馬を楽しみたいという思いが強かった。また、自分たちが愛する「競馬」というものを日本人に紹介したいという側面もあった。横浜でも西洋式の競馬が行われるようになり、最古の競馬は横浜が開港された翌年の1860年(万延元年)9月1日に現在の元町で行われた記録が残っている。その後1862年(文久2年)に横浜新田で1周1200m・幅11mの円形馬場が仮設(横浜新田競馬場)され、同年春からここで競馬が行われるようになる。これが、日本における初めての近代競馬(洋式競馬)の原型とされている。しかし居留外国人が増えるにつれて仮設の競馬場は廃止され、住宅地に転用されていった。その後も仮設の施設を転々としながら競馬が行われていたが、居留外国人によって恒久的な競馬場の建設を求める声が高まっていったように、江戸時代末期から競馬場問題が外交問題になっていた。
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