日本の錨
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/18 17:42 UTC 版)
古くは木と石を用いた錨を使用しており、一例として、大阪市森の宮遺跡からは縄文時代後期末から晩期前半の縄が巻き付いた状態の碇石が発見されており、最大長約42センチメートル、重さ12.5キログラム、砂岩製で、打ち欠きを施し、蔓をよった縄で縛られ、その重量から舟の碇とされる。同源かは不明であるが、海中にある石のことを「いくり」という(『日本家紋総覧 コンパクト版』 新人物往来社 p.106)。10世紀中頃の『和名類聚抄』巻十一における訓読みの表記は、「伊加利」、海中に石を用いて駐在すると説明されていることから、漢字では「碇」のほうで表記されている。 元々は中国から伝わった錨を基にしており、和錨といわれる鉄製の錨も錨として使用はするものの、戦船などで敵の船へ乗り込む際に縄の先につけてかぎ爪として使用することもあった。石製のものは「碇」、金属製のものは「錨」と使い分けていた。 明治大正時代には、海軍の近代化を図るために世界各国から艦船を購入しているが、これらの船舶と一緒にマーチンスやトロットマンス等数多くの錨が日本へやってきている。現在使用されているJIS型の元となるホールスも大正末期にはパテントアンカーとして日本へ輸入されていた。 1954年に起きた青函連絡船洞爺丸事故により錨の性能への関心が高まり日本独自の錨開発が始まる。 当時日本国有鉄道では国鉄型としてJNR型アンカーを開発し、洞爺丸の後継船をはじめ多くの船舶へ広めようとした。しかし、性能面での問題や青函連絡船の廃止、国鉄の民営化など様々な事情から現在ではほとんど使用されなくなっている。JNR型アンカーの姿は函館市青函連絡船記念館摩周丸や独立行政法人航海訓練所の大成丸で見ることができる。 海上自衛隊では創設と共に新型アンカーとして錨の開発に乗り出し、日本独自の錨としてあけぼの (護衛艦・初代)に搭載している。しかし、性能面において世界各国の錨になかなか迫れず、正式な名称も与えられずに、現在では海上自衛隊第1術科学校及び海上自衛隊第2術科学校の中庭や校庭にモニュメントとして飾られるのみとなっている。 日本各所にある商船学校や研究所、錨の製造工場なども錨の開発を行い、神戸大学ではKS-1(現KS-11)アンカーを開発し、練習船深江丸に搭載している。また、尾道錨製造ではONO-45として会社独自の錨を開発したが、尾道錨が廃業したため使われること無く消えた。 その後中村技研工業が第3世代と称してDA-1型アンカーを開発し、フェリー等の一般商船で使われるようになっている。
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