ビルマ進攻作戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/05/24 20:33 UTC 版)
日本軍第15軍はタイ進駐に引き続きビルマへの進攻作戦に移った。開戦間もなく先遣部隊の宇野支隊(第55師団歩兵第143連隊の一部)がクラ地峡を横断し、ビルマ領最南端のビクトリアポイント(現在のコートーン)を12月15日に占領した。さらに宇野支隊は海上を島伝いに北上したが、これは陽動で、第15軍主力はタイ・ビルマ国境のビラウクタウン山脈を一気に越える作戦を立てていた。すなわち、沖支隊(第55師団歩兵第112連隊の一部)がタイ領内カンチャナブリからダボイ(現在のダウェイ)へ向かい、第55師団主力および第33師団はラーヘン付近に集結してモールメン(現在のモーラミャイン)からラングーンを衝く作戦である。BIAも水上支隊、ダボイ兵団、主力の3隊に分かれて日本軍に同行し、道案内や宣撫工作に協力することになった。 沖支隊は1月19日タボイを攻略、第55師団主力は1月31日モールメンを攻略、第33師団は2月4日パアーンを攻略した。日本軍とBIAの前進とともにビルマの独立運動はすさまじい勢いで進展し、青年たちはわいわいがやがやとBIAへ身を投じた。英印軍第17インド師団はビルマ東部の大河サルウィン川とシッタン川を防衛線としていたが、2月22日、逃げ遅れた友軍を置き去りにしたままシッタン川の橋梁を爆破して退却した。BIAはこれを追って2月26日、日本軍主力に先立ちシッタン川を渡河した。さらにBIA水上支隊はイラワジデルタに上陸して英印軍の退路をかく乱した。 3月7日英印軍はラングーンを放棄し脱出、3月8日第33師団がラングーンを占領した。次いでBIAも続々とラングーンへ入城した。このときBIAの兵力は約1万余まで増加していた。3月25日、BIAはラングーン駅前の競技場で観兵式典を行った。オンサンを先頭にした4,500名のBIAの行進に、ラングーン市民は熱狂した。 ビルマ中部および北部にはなお英印軍と中国軍が展開していたが、日本軍は占領したシンガポールから第18師団と第56師団をビルマへ増援し、ビルマ全域の攻略を推進した。第56師団は4月29日ラシオを占領し、援蒋ルートを遮断した。英印軍と中国軍は日本軍に追い立てられ、疲労と飢餓に倒れ、多くの捕虜を残してアッサム州と雲南省へ向けて退却した。5月末までに日本軍はビルマ全域を制圧した。
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