第五航空艦隊長官
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1944年(昭和19年)11月15日の第1戦隊解隊と同時に軍令部出仕となっていた宇垣は、1945年(昭和20年)2月10日、第五航空艦隊司令長官に親補され、同月14日に鹿屋基地に着任した。第五航空艦隊・鹿屋特攻隊昭和隊所属の杉山幸照少尉は戦後「中将は自らが戦局打開の鍵を握っていると錯覚していた」と語っている。 沖縄戦では、特攻を主体とした米艦隊への海軍の航空総攻撃作戦である菊水作戦を指揮する。また、沖縄戦直前には、陸上爆撃機「銀河」24機によるウルシー泊地の米軍機動部隊への特攻作戦である「第二次丹作戦」や、九州沖航空戦なども指揮した。 2月10日第五航空艦隊の編成で軍令部、連合艦隊の指示・意向による特攻を主体とした部隊編成が初めて行われ、第五航空艦隊長官となった宇垣は長官訓示で全員特攻の決意を全艦隊に徹底させた。ただし、夜襲攻撃に専念した芙蓉部隊を視察した際には、彼らの戦法を賞賛している。 宇垣が第五航空艦隊司令長官に着任した時期には、既に日本軍には米機動部隊に通常航空攻撃をかけられる高性能機材も、機体数も、熟練パイロットの人数も揃えられなくなっており、主に特攻攻撃を主体とした攻撃法を余儀なくされた。第五航空艦隊ですら、寄せ集めの戦闘部隊に過ぎなかったのである。さらに索敵機に用いる燃料すら確保困難な情況であり、南九州作戦基地の収容力も加わって、不十分な偵察情報を基に散発的に少数機で特攻攻撃や通常攻撃をかけざるを得なくなった。出撃した攻撃隊の多くは米機動部隊の物量とシステム化された迎撃網の前に散るばかりであった。一部迎撃網を突破して空母など主力艦に攻撃を成功させたものもあったものの、特攻機の攻撃力の低さから、終戦まで巡洋艦以上の中型艦を1隻も撃沈できなかった。しかし一方では正規空母を大破させるほどの大損害を与えることに成功した例もあり、特攻により損傷した艦艇は修理のために戦場からの一時離脱を余儀なくされた。米軍は沖縄戦だけで駆逐艦12隻を含む34隻を特攻攻撃により撃沈され、250隻が損傷を受けた。 2月16日、アメリカ軍が硫黄島に対して攻勢を開始、連合艦隊は丹作戦部隊の編成を発令する。宇垣は20日に特別攻撃隊の編成を下令し、25日に「第二次丹作戦実施計画」をまとめた。これは鹿屋基地から3,000km離れた米軍機動部隊本拠地のウルシー環礁に対し、陸上攻撃機の銀河部隊(第七六二海軍航空隊)「梓隊」24機と誘導の二式飛行艇3機(八〇一空)をもって、銀河による体当たり攻撃を敢行しようというものだった。出撃前、宇垣は隊員に対して「万一天候其ノ他ノ渉外ノ為指揮官ニ於テ成功覚束ナシト認メタル場合ハ 機ヲ失セズ善処シテ再挙ヲ計レ 決シテ事ヲ急グ必要ハナイ」と訓示。出撃直前に第四艦隊からの偵察報告を受けて時期を迷い、3月10日に攻撃を一時取止め。発進させた攻撃隊を一度引き返させたという。3月11日の再出撃では、銀河のエンジン不調により24機中8機がエンジントラブル等で帰投。さらに偵察結果を待って発進を1時間遅らせた・飛行艇の始動が遅れた・船団回避のため迂回航路をとった・等の条件が重なって梓隊16機の到着は夜間となり、3機が目標発見せず攻撃断念、1機がエンジン故障で不時着、12機が特攻。結果は米軍正規空母1隻(ランドルフ)を大破させたにとどまった。 その1週間後、本土空襲に来襲した米軍機動部隊に対し、3日間の通常攻撃及び70機の特攻機を散発的に出撃させ攻撃(この攻撃で空母フランクリンが大破、航行不能)。不十分な敵情把握と戦果の過大判断の末に4日目の3月21日現地部隊の反対を「必死必殺を誓っている若い連中を呼び戻すに忍びない」として押し切り桜花特攻部隊『神雷部隊』の出撃に至った。一式陸攻18機(桜花搭載機15)と零式艦上戦闘機55で出撃予定だったが、零戦は故障のため次々に作戦参加不能となり、神雷部隊に同行できたのは30機にすぎなかった。神雷部隊はF6Fヘルキャット等約50機に迎撃され、陸攻は「桜花」は母機諸共全機帰還せず、零戦も10機失った。 4月6日になって菊水一号作戦が発動されると一日の出撃数としては海軍特攻として過去最多の161機を出撃させたが、これも目標到達時間を統一しなかったことから飽和攻撃とはならず、結果的に散発的攻撃ではあったが、陸軍も第一次航空総攻撃(特攻機61機)を実施しており、7日の56機出撃と合わせると戦果は駆逐艦3隻、掃海艇4隻、揚陸艇 (LST) 2隻、貨物船2隻撃沈、正規空母1隻、護衛空母1隻、戦艦1隻、駆逐艦大破7隻を含む15隻、掃海艇7隻損傷(他に魚雷艇2隻、LCIなど)にまで上った。この際、連合艦隊司令部の強引な作戦指導により戦艦大和(第二艦隊旗艦、司令長官伊藤整一中将)と第二水雷戦隊が米軍機動部隊航空機の猛攻により壊滅している(坊ノ岬沖海戦)。宇垣は突然決まった水上特攻作戦に不満を抱きつつも、特攻隊護衛機の一部を割いて第二艦隊の上空護衛を行っている。連合艦隊司令部は第二艦隊に対し護衛戦闘機を出す事を計画していなかったが、宇垣は第五航空艦隊長官の権限で大和以下の艦隊に護衛戦闘機(零戦)部隊を出撃させた。護衛戦闘機搭乗員には他の任務がある都合上、途中までの護衛となった。 その後も菊水作戦は6月以降まで行われたが兵力の枯渇や、散発的な使用により、大きな戦果を挙げられなかった。8月10日付で第五航空艦隊司令長官の職を解かれ、後任には草鹿龍之介中将が内定している。宇垣は8月10日付で第三航空艦隊司令長官に親補されたが、着任しないまま終戦を迎えた。 第五航空艦隊司令長官に在任中の宇垣は、全ての特攻出撃について訣別と見送りを行ったという。
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