剣部隊
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1944年12月第343海軍航空隊(通称・「剣」部隊)の戦闘301飛行隊(新選組)隊長に着任。剣部隊という名称は、菅野と八木隆次の案が公募で選出された。菅野は景品の万年筆を加藤種男に譲っている。菅野は自分の紫電改に敵をひきつけるため黄色のストライプ模様を描いた。他の隊長もそれに倣った。菅野は常に最前線で戦い、危ういところへ参入し列機を逃がす間、自身は最後までそこへとどまり、空戦では故障機に乗った部下をかばいながら戦うこともあった。部下の笠井智一が怪我をした際には弟に対するように気遣い、怪我が治るまで復帰を認めなかった。 源田実司令によれば、菅野は勇猛果敢で戦術眼もあり、戦闘技量も抜群で、三四三空を編成する時に真っ先に頭に浮かんだ人物であり、他の飛行隊長である鴛淵孝や林喜重と兄弟のように仲が良く、菅野は林と我慢比べをしてB-29の空襲下で退避せずに談笑していたこともあったという。副長の中島正中佐は、知将の鴛淵、仁将の林、猛将の菅野と評する。品川淳大尉(343空整備分隊長)は「最初に会った印象は傲岸不遜な男といった感じで、後から来た戦闘七〇一飛行隊長の鴛淵大尉や戦闘四〇七飛行隊長の林喜重大尉がきわめて紳士的だったのに対し、菅野は気に入らなければ、上級者といえども上級者とみなさないというようなところがあり、その意味では異色の存在だった」と語っている。二番機も務めた田中弘中尉は「頭も腕もいい、短気な面があるがさっぱりしている」と評する。田村恒春は「闘志だけでなく緻密。空戦がうまく気風もよくて遊びも豪快」と評する。桜井栄一郎上飛曹は「気さくで階級にこだわらない人」と語っている。宮崎勇は菅野を剣部隊の3人の隊長の中で一番若く、やんちゃで豪気であったと評している。笠井智一によれば、菅野は敵を発見すると、電話で「こちら菅野一番敵機発見!」と知らせたとたん、突っ込んでいくので二番機は苦労しただろうが、勇猛果敢、猪突猛進が真骨頂で、こんな隊長は他にいなかったという。ところが部下には優しい人で、笠井は殴られたことも怒られたこともないという。 菅野は司令である源田実大佐に心服しており、小島光造(中学・海兵同期)は「菅野には既存の秩序に逆らってそれを打ち破ろうとしていたようなところがあった。だから規則にうるさい上司だったら、菅野は秩序を乱す不届き者として見られ、彼自身くさってしまったかもしれない。源田さんはその辺を見抜き、とにかく戦闘に勝ってくれればよしとして細かいことは一切言わなかった。菅野もそうした源田さんの知遇に応えて、戦闘では抜群の働きをした」と語っている。源田も菅野を失った時は弟を失ったように感じたという。 菅野と隊員らが海軍クラブで騒いでいるとやかましいと何度も文句を言ってくる者がいるので、菅野は「何がやかましい」と襖を開けると少将と何人かの佐官参謀がいた。他の者が青ざめる中、菅野はテーブルの料理を蹴飛ばしその上に座り込んだ。少将が「もういいだろ、帰れよ」と嗜めたので帰ったが、翌日その少将が基地で源田司令と談笑しており、源田は菅野らを見ると「お前ら昨日は元気が良かったそうじゃの」と声をかけただけでその件は問題にならなかった。また、菅野が宮崎勇を連れ無断外出をして温泉へ行った際、源田司令と温泉ではち合わせたことがあった。無断外出は明らかな違反行為で小さくなった2人に対し、司令は「温泉はいいのう、気をつけて帰れよ」と声をかけ咎めることもなく、菅野は「さすがオヤジ(源田の愛称)だ」と感心した様子だったという。 343空隊員と親しい今井琴子夫人によれば、菅野は「俺にカアちゃん(嫁)を見つけてくれよ」「ゆっくり落ち着ける家庭がほしいな」と言っていたことがあるという。相手はいくらでも見つかったが、菅野には自分がいつ死ぬか分からないので、残す妻を作るわけにもいかないという気持ちもあり葛藤しているようであったという。 剣部隊で源田の薫陶を受けた菅野は「特攻へは行かない」と話すようになり、フィリピンで特攻を指揮していた中島正が副長に着任した際、343空も特攻に使われるのかと不安が漂ったが、菅野が源田司令に働きかけて中島を早々に転任させた。 3月19日、343空の初陣である九州沖航空戦(松山上空戦)で、敵機1機を撃墜直後に自身も撃墜され、顔にやけどを負い落下傘降下して電線に引っ掛かり助かるが、敵と間違われて殺気立った地元民に囲まれてしまい、身に着けていた千人針入りの日の丸の布を見せてようやく誤解が解けた。 4月15日、菅野の部下である杉田庄一が戦死。杉田は戦歴の上では菅野よりも先輩であったが、彼の将器に対して深い敬意を払っており、菅野の悪口を言うものがいれば殴りかかった。杉田が戦死した時、菅野は誰が見ても分かるほど落ち込んでいた。源田司令は菅野に杉田に劣らない僚機を迎えると約束したが、難航して菅野も気を遣い「もういいですよ」と言ったが、司令はそれでは菅野も近く死んでしまうと感じ、武藤金義が編入されることになった。武藤は司令に「私が来たからには隊長は死なせません」と約束して守ったが、7月24日武藤も戦死した。 大型爆撃機 B-29の迎撃任務にあっては菅野の考案した対大型爆撃機の戦法で部下と共に多数を撃墜、敵から恐れられた。しかし、その高い危険性から鴛淵大尉、林大尉からは賛意を得られず、林大尉と口論になった。そしてこのやりとりがあった翌日の4月21日に林は戦死。その報に接した菅野は「あんなことを言わなければ・・・」と後悔したという。
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