山本義正と「厚木の叛乱」
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「山本義正」の記事における「山本義正と「厚木の叛乱」」の解説
義正が海軍整備予備学生として赴任した先は、小園安名率いる厚木第三〇二航空隊(以後三〇二空)であった。もともと遠隔地配属を希望していたが、入隊した1945年当時では確実に無理なことであった。第三〇二航空隊に赴任してからは「雷電」の整備分隊士を務めた。また、防空壕掘りにも従事している。 赴任して1ヶ月経つか経たないかのうちに終戦を迎えた。しかし、小園は徹底抗戦とその準備を指示。そのためのビラも用意されたが、義正には一連の動きが疑問に思えたという。義正の記憶で8月17日か18日に、小園を中心とした会議に出席し、自分を海軍省への連絡要員にしてもらいたいと意見した。外の情勢が気になっていた小園は、義正に連絡将校として海軍省に赴くよう命じた。赴いた先の海軍省では「三〇二空から来た、息巻いた若手将校」と勘違いされるものの、やがて沢本頼雄の次男と対面し(義正は「若い者には若い者ということだったのでは」と回想している)、「押し付けだけでは納得しないだろうから、懇切丁寧に終戦を説明してはどうか」と要請している。実は、この義正の説明が、海軍内部が知った最初の「厚木の叛乱」の現状だったという。その後、堀悌吉や軍令部内に勤務していた遠縁の山口捨次(海軍大佐、元神風艦長、府立一中出身)からもアドバイスをもらい、原隊に戻った。その間、小園は病を発し一室に押し込められていた。 その後「厚木の叛乱」は沈静化し、厚木は進駐してくるアメリカ軍への準備に入っていたが、義正はそのアメリカ軍を一目みたいという魂胆があったようである。しかし、大船の航空事務部への転勤を命じられ、やがて9月下旬になって復員を勧められたが、その時点では今後の身の振り方については何も思いつかなかったという。 なお、内部から「厚木の叛乱」の一部始終を見ていた義正にとっては、叛乱そのものに関して「三〇二空全体で騒いでいるという感じではなかった」と回想している。
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