山本義正と「厚木の叛乱」とは? わかりやすく解説

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山本義正と「厚木の叛乱」

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/26 20:50 UTC 版)

山本義正」の記事における「山本義正と「厚木の叛乱」」の解説

義正が海軍整備予備学生として赴任した先は、小園安名率い厚木第三〇二航空隊以後三〇二空であった。もともと遠隔地配属希望していたが、入隊した1945年当時では確実に理なことであった第三〇二航空隊赴任してからは「雷電」の整備分隊士務めたまた、防空壕掘りにも従事している。 赴任して1ヶ月経つか経たないかのうち終戦迎えた。しかし、小園徹底抗戦とその準備指示。そのためのビラ用意されたが、義正に一連の動き疑問思えたという。義正の記憶8月17日18日に、小園中心とした会議出席し自分海軍省への連絡要員にしてもらいたいと意見した。外の情勢が気になっていた小園は、義正に連絡将校として海軍省赴くよう命じた赴いた先の海軍省では「三〇二空から来た、息巻いた若手将校」と勘違いされるものの、やがて沢本頼雄次男対面し(義正は「若い者には若い者ということだったのでは」と回想している)、「押し付けだけでは納得しないだろうから、懇切丁寧終戦説明してはどうか」と要請している。実は、この義正の説明が、海軍内部知った最初の「厚木叛乱」の現状だったという。その後堀悌吉軍令部内に勤務していた遠縁山口捨次(海軍大佐、元神風艦長府立一中出身)からもアドバイスをもらい、原隊戻ったその間小園は病を発し一室押し込められていた。 その後厚木叛乱」は沈静化し、厚木進駐してくるアメリカ軍への準備入っていたが、義正はそのアメリカ軍一目みたいという魂胆あったようである。しかし、大船の航空事務部への転勤命じられ、やがて9月下旬になって復員勧められたが、その時点では今後身の振り方については何も思いつかなかったという。 なお、内部から「厚木叛乱」の一部始終見ていた義正にとっては、叛乱そのものに関して三〇二空全体騒いでいるという感じではなかった」と回想している。

※この「山本義正と「厚木の叛乱」」の解説は、「山本義正」の解説の一部です。
「山本義正と「厚木の叛乱」」を含む「山本義正」の記事については、「山本義正」の概要を参照ください。

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