第三〇一海軍航空隊
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第三〇一海軍航空隊(だい301かいぐんこうくうたい)は、日本海軍の部隊の一つ。絶対国防圏防衛の主力戦闘機隊として、太平洋戦争終盤に最前線で迎撃・哨戒行動に従事した。
沿革
最前線基地であったラバウルの防衛を担ってきた零式艦上戦闘機が陳腐化し、敵航空部隊が増強されたことから、量産化が始まった局地戦闘機雷電からなる戦闘機隊の編成をもくろんだ。そこでラバウル向けの航空隊として三〇一空、蘭印向けの航空隊として第三八一海軍航空隊を編成した。緊急性が高い三八一空が優先して機体を調達したため、三〇一空は開隊が一月半遅れ、実機訓練も着手できなかったため、実戦投入も大幅に遅れた。
- 昭和18年(1943年)
- 昭和19年(1944年)
- 2月14日 - 雷電量産機3機領収。
- (1月5日に豊橋で三八一空の雷電が空中分解事故を起こし、三八一空が零戦隊に換装されたため、三八一空納入予定機を流用したもの)
- 2月20日 - 第四艦隊第二二航空戦隊に転籍。
- 2月17日 - トラック諸島空襲により、ラバウルへの新戦力投入を断念。進出先を内南洋に変更。
- 3月4日 - 二二航戦は新編の第十四航空艦隊に転籍。
- 飛行隊制度を導入、零戦隊は戦闘第316飛行隊、雷電隊は戦闘第601飛行隊に改編。
- 5月5日 - 二二航戦は第一航空艦隊に転籍。
- 5月20日 - 「あ号作戦」発動。戦316飛行隊はサイパン島、戦601飛行隊はトラック進出予定。
- 5月27日 - 「渾作戦」発動。豪北進出が決定し、全機館山に集結。
- 6月2日 - 戦316飛行隊先遣隊18機、サイパン島に進出。戦316飛行隊本隊19機、硫黄島に進出。
- 6月11日 - カロリン諸島に敵機動部隊艦載機襲来、応戦したサイパン先遣隊壊滅。
- 6月15日 - 硫黄島に敵機動部隊艦載機襲来、応戦した戦316飛行隊本隊壊滅。
- 館山に待機中の戦601飛行隊、雷電放棄・零戦換装のうえ硫黄島進出を下令。
- 6月17日 - 横須賀海軍航空隊はじめ在関東航空隊で「八幡攻撃部隊」を結成、戦601飛行隊も参加。
- 6月15日 - 八幡部隊、硫黄島に進出。戦601飛行隊9機を含む。
- 7月3日 - 硫黄島に敵機動部隊艦載機襲来。翌日までの戦闘で機体喪失。
- 7月10日 - 解隊。
- 2月14日 - 雷電量産機3機領収。
生産・整備・操作に難点が多かった雷電に振り回された三〇一空は、館山-硫黄島間の片道飛行もおぼつかない雷電の足の短さに泣かされ、遂に雷電を実戦に投入することができなかった。雷電に代わって実戦投入された零戦隊だったが、逐次投入・各個撃破という最悪の結末を迎えた。機体を失った硫黄島の搭乗員は、即刻派遣された輸送機で本土に帰還し、以後の本土防空戦に参加した。しかし、地上要員は帰還ならず、翌年3月の硫黄島地上戦で玉砕する。6月17日の硫黄島進出の際、零戦と引き換えに追浜へ置き去りにした雷電は、第三〇二海軍航空隊など本土防空航空隊に譲渡され、硫黄島から生還した搭乗員と再会できたものもある。
主力機種
歴代司令
- 八木勝利 中佐:昭和18年11月15日 - 昭和19年7月10日解隊
関連項目
参考文献
- 『日本海軍編制事典』(芙蓉書房出版 2003年)
- 『航空隊戦史』(新人物往来社 2001年)
- 『日本海軍航空史2』(時事通信社 1969年)
- 『戦史叢書 海軍航空概史』(朝雲新聞社 1976年)
- 『戦史叢書 本土方面海軍作戦』(朝雲新聞社 1975年)
- 『戦史叢書 マリアナ沖海戦』(朝雲新聞社 1968年)
- 『局地戦闘機「雷電」』(朝日ソノラマ 1998年)
- 『連合艦隊海空戦戦闘詳報別巻1』(アテネ書房 1996年)
301空
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1944年(昭和19年)2月、戦地から帰国した美濃部は軍令部に出頭、実兄で軍令部情報部に勤務していた太田守中佐に相談すると、軍紀違反になると忠告され、軍令部作戦第1課航空作戦部員源田実中佐に相談するように勧められた。零戦交付を掛け合うと源田中佐は「水上機部隊に零戦は渡せるものか」と否定的なので、美濃部が「航空機の生産が低下し、しかも陸上機パイロットの激減により、もっぱら迎撃に終始し、進攻兵力がすくなくなった。しかし、水上パイロットは、なおも人材豊富である。その夜間技量と零戦を併用すれば、敵中深く侵入して攻撃が可能である」と進言すると、源田中佐は判断が早く「特設飛行隊を編成せよ。NTF(南東方面艦隊)から外し22sf(第22航空戦隊)に編入する」と言い、その場で人事部、航空本部部員が呼ばれて決定された。 1944年2月25日、美濃部は301空戦闘316飛行隊長着任した。戦闘316飛行隊には、美濃部の希望通り熟練水上機搭乗員多数が配属された。美濃部は気心知れた熟練水上機搭乗員の分隊長を通じて、自分の構想通りの猛訓練を行い、人生で一番の充実感を味わったが、戦闘316飛行隊が配属されていた第301海軍航空隊は局地戦闘機雷電を主力とする対戦闘機の要撃任務が主であり、美濃部から訓練完了との報告を受けた司令の八木勝利中佐は美濃部に「空戦はできるのか?」と質問してきた。当初、美濃部は「水上機パイロット出身者は零戦で訓練すれば、空中戦もすぐに上達する」などと楽観的に考えていたが、実際には殆ど上達しておらず、美濃部は「空戦はできるのか?」と質問してきた八木に対して「視点が違う、そんなに短期間で空戦訓練ができるわけがない」と批判的な感情を抱くなど、当初の楽観的な見通しを改めていた。そこで美濃部は「戦闘機の任務は空中戦ばかりではありません。今のうちに第一線に出て訓練しないと意味がなくなります」などと食って掛かり、あくまでも301空所属は便宜的なものであり「夜間攻撃隊の目標は空母です」と強く言い張ったため、八木は元々の部隊の運用思考が違うと考えて美濃部を解任している。戦闘316は搭乗機は新型の零戦52型ながら、八木の懸念通り対戦闘機空戦技術は殆どなく、先遣隊の18機があ号作戦のため、第一航空艦隊所属としてテニアン島に進出したが、1944年6月11日、サイパンの戦いの前のアメリカ軍機動部隊による空襲の迎撃戦闘を行い、稚拙な空戦技術により一方的に撃墜されて10機が未帰還となる惨敗を喫した。 この日にマリアナの日本軍基地に来襲したアメリカ軍艦載機は延べ1,100機にも達し、日本軍基地航空隊は満足に反撃もできずに、わずか1日で100機以上を失って壊滅状態に陥るなど一方的な戦闘となった。美濃部は戦後になって、自分が考案した敵機動部隊に対する独自の特攻戦術(「特攻」の節を参照)を、あ号作戦で戦闘316で実施するべく訓練を重ねていたのに、その戦闘316に迎撃戦闘を行わせた八木と、自分の更迭人事を行った人事担当者のせいで、それを実施できなかったことがあ号作戦惨敗の一因になったなどと主張しているが、当初から、美濃部ら日本軍が考案した、基地航空隊によるアメリカ軍機動部隊撃滅という作戦自体が実現困難な作戦であったことが、この日の戦闘で明らかとなった。その後、遅れてテニアン島に到着した八木に直卒された主力18機も、6月15日にアメリカ軍艦載機60機を迎撃したが、一方的に17機が撃墜されるという惨敗を喫して壊滅している。
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