海軍中尉 ~ 海軍少佐
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/15 04:36 UTC 版)
1914年1月15日には装甲巡洋艦「常磐」へ乗り組んで引き続き勤務し、1915年12月7日には横須賀鎮守府に配属、同年12月13日から海軍中尉に昇格するとともに海軍砲術学校の普通科学生、1916年6月1日からは海軍水雷学校の普通科学生としてそれぞれ採用された。これ以降、醍醐は様々な戦艦や潜水艦などに乗り組み、真珠湾攻撃まで艦長などを歴任していく。 同年10月14日、満25歳に達し貴族院侯爵議員に就任(1946年4月12日辞職)。同年12月1日に戦艦「金剛」、1917年4月1日には駆逐艦「浦風(初代)」に乗り組み、同年12月1日には第4潜水艇隊に配属されて勤務を重ねる。1918年11月2日には第13潜水艇隊に配属され、同年12月1日には海軍大尉へ昇進と同時に海軍水雷学校の高等科学生に進級する。1919年12月1日には第12潜水戦隊の潜水艦長に選ばれ、1920年4月20日には呉の防備隊にも配属される。同年9月15日からはついに潜水艦への乗り組みが開始され、同年12月1日には第26潜水艦へ乗り組む。この当時の醍醐は、短期間で何度も戦艦・駆逐艦・潜水艇に乗り組むことで、様々な勤務に着実に対応する力をつけていく。また、乗り組み開始日は12月1日に行われるケースが多かった。 1921年7月1日からは第27潜水艦の艦長に就任するが、僅か半年後の1922年3月15日からは、第27潜水艦艦長と共に海軍潜水校の教官を兼任することとなり、醍醐の多忙さは徐々に増していく。同年4月15日には練習艦隊参謀に参加するが、日頃の疲労からか同年5月30日の公務遂行中に重傷を負い、一命は取り留めたものの、長期休養を余儀なくされた。 1923年3月20日からは巡洋艦「阿蘇」の分隊長を務めたのち、同年5月15日には第57潜水艦の艦長、1924年5月10日には海防艦「浅間」の分隊長を務める。同年12月1日、海軍少佐へ昇進する。
※この「海軍中尉 ~ 海軍少佐」の解説は、「醍醐忠重」の解説の一部です。
「海軍中尉 ~ 海軍少佐」を含む「醍醐忠重」の記事については、「醍醐忠重」の概要を参照ください。
- 海軍中尉 ~ 海軍少佐のページへのリンク