真珠湾攻撃まで
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「ワード (駆逐艦)」の記事における「真珠湾攻撃まで」の解説
ワードはカリフォルニア州のメア・アイランド海軍造船所で1918年5月15日に起工し、それからわずか15日ないし17日半たった6月1日にドロシー・ホール・ワード夫人によって進水、艦長ミルトン・S・デイヴィス中佐の指揮下1918年7月24日に就役する。建造日数は70日であった。 竣工後、ワードは訓練ののち1918年12月2日に西海岸を離れて大西洋側に回航され、その途中で第18駆逐群の旗艦となってグアンタナモ湾における冬季の定例演習に参加する。第一次世界大戦後、アメリカでは大西洋横断飛行が計画され、ワードの支援艦艇の1隻として横断飛行に関わることとなった。1919年5月15日、ニューファンドランド島トレパッシー(英語版)から3機のカーチス NC(英語版)、NC-1、NC-3およびNC-4がアゾレス諸島への飛翔を開始。ワードはニューファンドランド島から数えて6番目の洋上目標として横断飛行を支援した。支援を終えたあとは再び太平洋方面に移動することとなり、パナマ運河を西進してカリフォルニア州、オレゴン州およびワシントン州の港町を歴訪。1919年9月13日にはシアトルでウッドロウ・ウィルソン大統領の巡閲を受けた。巡閲のあとはサンディエゴに戻り、1919年の残りの期間と1920年を同地で過ごした。その間の1920年7月17日にハルナンバー(英語版)が制定され、ワードには DD-139 の番号が割り当てられた。その後は1921年春まで第18駆逐群の僚艦とともにサンディエゴに係留され、1921年7月21日に退役して保管されることとなった。 1930年代に入ってナチス・ドイツ、イタリア、日本のいわゆる枢軸国の台頭が目立ち、これに対抗する形で海軍は退役していた艦艇の再就役を計画し、ワードもこれに関連して再就役することとなった。これら再就役艦艇は、1939年9月の第二次世界大戦勃発後は中立パトロールの名のもとで行われた哨戒行動に駆り出された。1941年1月15日、ワードはサンディエゴの駆逐部隊基地で艦長ハンター・ウッド・ジュニア少佐の指揮下で再就役する。しかし、ワードは大西洋には回されず、2月28日にサンディエゴを出て真珠湾に向かった。3月9日に真珠湾に到着後は3月14日付で現地の第80駆逐群に合流し、ベテランの駆逐艦アレン(英語版) (USS Allen, DD-66) とともに湾口の警戒任務に従事した。日米間の緊張が高まるとシューレイ(英語版) (USS Schley, DD-103) とチュー(英語版) (USS Chew, DD-106) 、沿岸警備隊の艦船などが追加配備され、湾口の警戒は一層厳重になった。
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真珠湾攻撃まで
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「アストリア (重巡洋艦)」の記事における「真珠湾攻撃まで」の解説
10月、アストリアの母港はサンペドロから真珠湾に移った。1940年春、アストリアは第21次フリート・プロブレムに参加してハワイ水域で訓練を行った。1941年4月2日、アストリアは真珠湾を出港し、4月8日にロングビーチに到着後、13日にメア・アイランド海軍造船所に入渠して1.1インチ75口径4連装機銃(英語版)とレーダーを装備した。アストリアは7月11日に出渠し、ロングビーチ、サンペドロを経て7月24日に真珠湾に向けて出港した。 7月31日に真珠湾に戻ったアストリアは、9月前半までオアフ島とミッドウェー島との間で哨戒を行った。その後、太平洋に出没するドイツの仮装巡洋艦に備えてグアムおよびフィリピン行きのアメリカ船舶に護衛がつくこととなった。アストリアは輸送船ヘンダーソン (USS Henderson, AP-1) を護衛し、グアムとマニラに寄港した後、10月29日に真珠湾に帰投する。アストリアは局地的な哨戒任務に戻り、事が平和なまま5週間が過ぎ去った。
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真珠湾攻撃まで
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「カールトン・H・ライト」の記事における「真珠湾攻撃まで」の解説
カールトン・ハーバート・ライトは1892年6月2日、アイオワ州チカソー郡ニューハンプトン(英語版)で生まれる。ライトは1912年に海軍兵学校(アナポリス)を卒業。卒業年次から「アナポリス1912年組」と呼称されたこの世代からは、他に潜水艦部隊を率いたチャールズ・A・ロックウッド、海軍作戦部長になったルイス・デンフェルド、太平洋艦隊参謀長を務めたチャールズ・ホレイショ・マクモリス、ソロモン諸島の戦いでの水上戦闘で活躍したアーロン・S・メリル、空母任務群を率いたアルフレッド・E・モントゴメリーやデウィット・C・ラムゼー(英語版)らを輩出した。ライトの成績は156名中16位というものだった。 第一次世界大戦に参戦後、ライトはアイルランドのクイーンズタウンに派遣された駆逐艦「ジャーヴィス」に乗り組み、船団護衛に従事する。次いで、北海を通って大西洋に出撃しようとするドイツUボートの通過を防ぐ機雷礁の構築作戦に参加した。しかし、完了まであとわずかとなった時に大戦が終結した。大戦終結直後の1918年から1920年にかけては砲術研究学生課程を受講し、受講後は1935年まで様々な艦艇や陸上砲の砲術部門ポストおよび人事部門ポストを務める。1935年から1936年には第18駆逐隊司令となり、1941年までの間にはヨークタウン機雷貯蔵庫(英語版)の所長などを歴任した。大佐に昇進後の1941年5月31日からは重巡洋艦「オーガスタ」艦長となり、そのポジションで真珠湾攻撃による第二次世界大戦参戦を迎えた。
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