真珠湾空襲、演習にあらず
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/16 18:50 UTC 版)
「真珠湾攻撃」の記事における「真珠湾空襲、演習にあらず」の解説
機雷敷設艦オグララ(英語版)の甲板上を歩いていた太平洋基地部隊司令官のウィリアム・ファーロング(英語版)少将は、航空機が急降下して航空基地の格納庫に向けて爆弾を落とすところを見た。しかし、これが日本軍機であるとは夢にも考えず「爆弾投下装置をしっかり止めておかないとは、なんとまぬけなパイロットだ」と舌打ちしたが、その航空機が左に大きく機首を起こした際に、主翼の日の丸マーク(国籍マーク)がはっきりと見えた。ファーロングは状況を理解すると、「日本軍だ」「配置につけ」と叫びながら、オグララの艦橋に向かい「在港の全艦艇出撃せよ」と警報を出させた。 続いてヒッカム飛行場からも爆煙が上がった。雷撃隊を率いていた村田は正しく奇襲と理解し予定通りヒッカム飛行場上空を通る雷撃コースに入ろうとしていたがヒッカム飛行場からの爆煙に驚き、目標が見えなくなっては一大事と近道を取り、7時57分(同3時27分)に雷撃を開始した。淵田は飛行場攻撃の爆煙があまり激しくならないうちに水平爆撃を開始する旨を決意し、水平爆撃隊に「突撃」(ツ・ツ・ツ……のツ連送)を下命した。8時00分(同3時30分)、戦闘機隊による地上銃撃が開始され、8時5分(同3時35分)、水平爆撃隊による戦艦爆撃が開始された。 アメリカの軍艦は朝8時ちょうどに艦尾に星条旗を掲揚するという習わしがあり、この日も各艦の後部露天甲板に士官と水兵が整列していたが、その時に日本軍の攻撃が開始された。ネバダでは23名の軍楽隊による国歌「The Star-Spangled Banner」の演奏が開始されていた。その上を魚雷を投下した九七式艦上攻撃機が低空飛行で飛び越えていったが、軍楽隊は誰も隊列を離れることなく最後まで演奏している。 最初の魚雷は8時前にウエストバージニアに命中したが、そのときようやく戦闘配置が発令された。アメリカ軍水兵たちは慌てて配置につき上空を乱舞する日本軍機に向かって射撃を開始したが、なかなかスムーズにはいかなかった。多くの艦の砲や甲板に天幕が張られており、それを取り外すため、水兵たちはロープの結び目を丁寧に一つ一つほどいていたため、なかなか捗らなかった。砲艦サクラメント(英語版)ではそのような状況を見て業を煮やしたコックが調理室から肉切り包丁を持ち出すと、ロープを包丁で切り離してようやく天幕を取り除いている。また、各艦の弾薬庫には鍵がかかっており、なかなか開けることができなかったが、駆逐艦ヘルム(英語版)では艦長が「鍵がどうしたと言うんだ、叩き壊してしまえ」と命じるなど、混乱しながらも臨機応変な対応を行っている。一方でフォード島の陸上基地においては、高射機関銃の弾薬を取りに来た兵士に対して、兵站士官が正式な物品請求書がないと渡すことはできないと兵士を追い返している。弾薬を手に入れることができなかった兵士は、「奴らに何かを投げつけずにはいられない」といってレンチを低空飛行する日本軍機に対して振り回していた。 アメリカ軍水兵たちが反撃のために四苦八苦しているときにも、戦艦通り”と呼ばれた戦艦泊地(バトルシップロウ)の主力戦艦部隊に日本軍雷撃機が投下した魚雷が次々と命中していった。ウエストバージニアに続いて、オクラホマ、メリーランド、アリゾナ、テネシーと少し離れたところに停泊していたカリフォルニアが命中弾を受け、なかでもオクラホマの被害が最も甚大であり、2発目の魚雷で全艦停電となると、3本目の魚雷が左舷の艦体を引き裂き、大きく傾斜して艦内に流入した海水が多くの水兵を押し流してしまった。絶望的な状況でアメリカ軍水兵たちは日本軍に対して呪詛の言葉を吐き捨てていたが、なかには「私は奴らがアメリカに腹を立ててるってことも知らなかったよ」と驚いている者もいた。オクラホマにはさらに2発の魚雷が命中し傾斜は拡大する一方であり、弾薬庫内では450㎏にもなる主砲弾が転げまわり水兵を押しつぶした。わずかに残ったラダーに群がって艦から脱出しようともがいている水兵を見ていた士官が、「外に出るのは非常に危険だ。戦艦は、ひっくり返ることはないのだから」と言って押し戻したが、そのときの傾斜は60°に達していた。オクラホマの水兵で最も恵まれていたのは上甲板にいた者たちであったが、傾斜が進むにつれて次第に右舷に進んでいき、気が付いたときにはオクラホマの艦底のうえに立っていたという。オクラホマは最初の魚雷が命中してわずか15分後には転覆してしまった。戦死者は従軍司祭のアロイシウス・シュミット(英語版)神父を入れて429人となったが、転覆したときに艦に閉じ込められた水兵も多く、3日後に32人が転覆した艦内より救助されている。 オクラホマが大きく傾斜をしていた8時過ぎには、加賀飛行隊の九七式艦上攻撃機がアリゾナに向けて800kg徹甲爆弾を投下、1発目が4番砲塔側面に命中した後、次いで8時6分、2番砲塔横に命中した爆弾が前甲板を貫いて前部火薬庫を誘爆させた。その瞬間高さ150mにも及ぶキノコ雲が立ち上り、激しい衝撃が周囲を襲った。戦艦隊の消火のためにバトルシップロウに近づいていた消防艇の乗組員たちは全員衝撃で艇に身体を押し付けられ、アリゾナ近くに停泊していた艦艇の水兵の多くが海の中に投げ出されたが、その中にはアリゾナに係留されていた工作艦ヴェスタル艦長カッシン・ヤング中佐も含まれていた。他にも、フォード島を走っていたトラックのエンジンが突然停止し、第1次攻撃隊総指揮官の淵田が乗る九七式艦上攻撃機も木の葉のように揺れたという。一瞬にして、艦橋で指揮を執っていた第1戦艦部隊司令官アイザック・C・キッド少将と艦長フランクリン・ヴァン・フォルケンバーグ(英語版)大佐を含む1,177人が戦死し、吹き上げられた鋼鉄や木片やキャンバスやアリゾナ乗組員の遺体の一部がヴェスタルにも降り注いだが、係留されたままでは沈没するアリゾナの巻き添えとなってヴェスタルも沈没してしまうと判断したヤングは、重油の海を泳いで艦に戻ると、すぐにアリゾナと繋いでいる錨綱を切るよう命じて沈没を防いでいる。 最初の魚雷が命中したウエストバージニアも苦闘を続けていたが、並んで停泊していたテネシーに爆弾が命中し、その破片がウエストバージニアの艦橋を破壊、艦長のマーヴィン・シャープ・ベニオン(英語版)大佐がその衝撃で、艦橋から右舷の機関銃座まで転落してしまった。水兵が慌ててベニオンに駆け寄るも、腹部に致命傷を受けており治療は無駄であった。そこでベニオンを少しでも楽にしてあげようとエーテルで眠らせようとしたが、ベニオンは気を失うことなく、水兵に戦況の質問を矢継ぎ早にしてきたので、水兵は善意の嘘も交えて「艦は発砲を続けております」と答えベニオンを安心させている。やがて火災が迫ってきたため、水兵たちはベニオンを担ぎ上げると艦橋に運んで行ったが、その際にベニオンは水兵たちに「自分はほおっておいて逃げてくれ」と言い続けていた。このままウエストバージニアもオクラホマと同じように転覆する危険性が高かったが、クロード・リケッツ(英語版)中尉を中心とする、消火班と工作班の的確なダメージコントロールにより、転覆や横転は免れてそのまま着底することができた。この後、着底したウエストバージニアは沈没艦から流れ出した重油による火災に包まれたため8時50分に総員退艦命令が出されたが、艦体に再起不能なダメージを受けることはなく、後に浮揚して近代化改修が施されている。ベニオンは最後まで艦橋にとどまったが、出血多量により死亡し、その活躍に対して名誉勲章が送られている。他にもバトルシップロウの戦艦隊は、カリフォルニアは半分沈没、メリーランドとテネシーも行動不能に陥るなどほぼ壊滅してしまった。あまりにもバトルシップロウを濃い黒煙がを覆ってしまったため、どの艦がやられたのかほとんど判らないほどであった。 フォード島を挟んでバトルシップロウの反対側には、標的艦ユタが停泊していた。標的艦と言っても元々は戦艦の大型艦船で、また甲板を爆撃訓練用に分厚い木板で覆っていたため、日本軍機はユタを空母と誤認し、蒼龍の吉岡政光二等飛行曹の搭乗機を含む5機の九七式艦上攻撃機が魚雷を投下、うち2発が命中した。ユタは次第に傾斜していったが、そのときに甲板を覆っていた木板がよじ登ってくる水兵たちに直撃し、脱出を妨げるという致命的な役割を果たしてしまった。やがてユタは懸命の復旧作業にも関わらず横転した。 オアフ島各航空基地は、日系人による破壊工作を警戒し、警備しやすいように航空機を分散せず、集結させて配置していた。これが、裏目に出て、日本軍の爆撃や銃撃で航空機の損害を大きくする結果を招いた。ハワイ航空軍のオアフ島防衛の要となるホイラー飛行場は、真珠湾攻撃で一番目に日本軍の攻撃を受けることとなった。ホイラー飛行場には、アメリカ陸軍航空隊主力戦闘機P-40、87機を主力とする180機が配備されていたが、坂本明大尉率いる急降下爆撃隊25機の爆撃で、集結駐機していたアメリカ機の燃料に引火し、次々と航空機が炎上、また板谷茂少佐率いる制空隊の戦闘機43機も地上に並んでいるアメリカ軍戦闘機に機銃掃射を行い次々と撃破、たちまち半数の88機が撃破され戦闘力を喪失した。爆撃機が主力のヒッカム飛行場も同様の攻撃で大打撃を被り、34機の爆撃機が撃破され、航空基地では最大の人的被害となる182名の戦死者を出し壊滅した。 太平洋艦隊司令官キンメルは、この日は早朝からハワイ方面陸軍司令長官ショートとゴルフの予定であったが、ワード号事件の報告があり、司令部に出頭するため、ゴルフを諦めて着替えに一旦自宅に帰っていた。そこへ司令部から「日本機、真珠湾を攻撃中」という電話が入ったため、驚愕(きょうがく)したキンメルは受話器を叩きつけ、慌てて戸外に出ると、戦艦列に群がる日本軍機が見え呆然と立ち尽くした。キンメルは迎えに来た車両に飛び乗ると、8時5分には司令部に到着したが、車から降りる際には爆弾の爆発音や対空砲火の砲声などの爆音や、火薬や燃料の匂いで、周囲は地獄さながらの状況となっていた。司令部についてもキンメルにできることは、戦艦隊が日本軍機に攻撃される状況を見守るだけであった。その時、流れ弾がガラスを破って、窓際で戦況を見つめていたキンメルの胸に当たった。しかし、流れ弾には勢いがなく、軍服の胸の部分に黒い汚れを残しただけであったが、キンメルは悲嘆と絶望で「いっそのこと、この弾が私を殺してくれたらよかったのに」とつぶやいたのを副官が聞いている。一方のショートはゴルフ場から官舎に戻ると、爆発音が聞こえだしたためベランダから外の様子をうかがったが、海軍か海兵隊のパイロットが迫真的な演習をしているものと勘違いした。その後、参謀の知らせによりようやく事態を飲み込めたショートは、陸軍全部隊に第3警戒態勢を命じたが、「2隻の戦艦が沈んだ」という情報部長補佐の報告に対しては「そんなこと、笑止千万だ!」とはねつけ信じようとしなかった。 ホノルルの繁華街では、水兵たちがバス、タクシー、乗用車、軍用トラックといったあらゆる交通手段を使って基地にたどり着こうとしていた。それにパトカーや消防車などの緊急車両も加わり、真珠湾に向かう二車線のアスファルト道路は車で溢れたが、制限速度を守っている車はなかった。その頃、真珠湾で日本軍の攻撃にさらされているアメリカ兵たちは、日本軍のパイロットの技量に驚愕していた。この日の朝までアメリカ人は日本軍の航空戦力など取るに足らず、三流のパイロットが操縦する二級品の飛行機の寄せ集めと思い込んでいた。しかし、日本軍の急降下爆撃機は見事な降下で針の先に命中させるような精度で爆弾を命中させ、雷撃機は教科書通りの魚雷投下を行っていた。特にアメリカ兵を驚かしたのは日本軍機の低空飛行であり、あまりにも巧みに低空を飛行していくため、戦艦泊地に突撃を開始した雷撃機は、海軍工廠病院の最上階(3階)から見下すことができ、日本軍機の操縦席どころかパイロットの表情まで見えたほどであった。 日本軍の第一波攻撃が一段落した頃に被った損害が明らかになってきたが、戦艦2隻が完全に撃沈、戦艦3隻が大破し、多数の死傷者が出ているとの報告を聞いてキンメルは苦悶の声を上げた。キンメルは日本軍に対する復讐のチャンスを願ったが、この大敗北が自身の海軍生活に終止符をうつものであるということも十分認識しており、事実、その通りとなった。
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