真珠湾攻撃へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/03 05:13 UTC 版)
1941年(昭和16年)12月1日の御前会議において、戦後、国際検事局の尋問に対し東條英機が語ったところによれば昭和天皇から東條英機総理大臣に対し、「最終通告の手交前に攻撃開始の起こらぬように気をつけよ」との注意があったという。また、野村吉三郎駐米大使からも11月27日付発電で、「交渉打ち切りの意思表示をしないと、逆宣伝に利用される可能性があり、大国としての信義にも関わる」との意見具申があった。 このため東郷は、永野修身軍令部総長、伊藤整一軍令部次長ら、交渉を戦闘開始まで打ち切らない方針だった海軍側との交渉を開始。山本五十六連合艦隊司令長官も上京し「無通告攻撃には絶対に反対」と表明したともされ、海軍側も事前通告に同意し、ワシントン時間7日午後1時(日本時間8日午前3時)に通告、ワシントン時間7日午後1時20分攻撃、とする事が決定した。しかし、実際には当初予定より1時間20分遅れたワシントン時間7日午後2時20分通告(真珠湾攻撃開始1時間後)となった(日本側の通説では駐ワシントン日本大使館の事務上の不手際が原因とするが、異説も存在する)。また一方、これらの日本側の状況をアメリカ側の首脳陣は「マジック」と呼ばれる暗号解読によって外交通電内容(妥結見込み無しと判断したことの通告)をほぼ把握していたが、アメリカ各地へ事態を知らせる警告は、至急手段をとらずに行われていた。 ただし、このときに日本が実際にアメリカに手交した最終通告の「帝国政府ノ対米通牒覚書」は宣戦布告ではなかった。(→真珠湾攻撃#「帝国政府ノ対米通牒覚書」と宣戦布告)後の東京裁判では、東郷はこれを(自分としては)開戦通告と同じものだとしている。 開戦直前まで日米交渉を継続したことが、アメリカ側からは開戦をごまかす「卑劣極まりないだまし討ち」として、終戦後に東郷が極東国際軍事裁判で起訴される要因の一つとなった。もともと東郷は国際検事局の尋問に海軍は無通告で攻撃するよう働きかけていたことを語っていたが、これについて、法廷で外務省の責任ではないかとするブラナン弁護人(海軍永野修身の弁護人)の東郷に対する執拗な尋問が続くうちに苛立ち、海軍の永野と嶋田がこれについて話せばためにならないと自分を脅していたことを暴露した。嶋田は言った事実は認めたものの、これは文字通り東郷の身を心配してやったものだと主張した。 東郷は開戦後も「早期講和」の機会を探るために外務大臣を留任したが、翌年の大東亜省設置問題を巡って東條首相と対立して辞任した。外務省と別箇に大東亜省を設置する事で、日本がアジア諸国を自国の植民地と同じように扱っていると内外から見られる事を危惧したことや「早期講和」に消極的な東條内閣に対する一種の倒閣運動だったと見られる。
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