真珠湾攻撃からガダルカナル島
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「秋雲 (駆逐艦)」の記事における「真珠湾攻撃からガダルカナル島」の解説
竣工後は瀬戸内海に回航されて訓練に従事していた。同時に9月27日附で、編制されたばかりの第五航空戦隊(司令官原忠一少将・海軍兵学校39期) に編入され、吹雪型駆逐艦「朧」とともに最新鋭の翔鶴型航空母艦2隻(翔鶴、瑞鶴)の護衛を務める。11月17日、来る真珠湾攻撃のために編成された第一航空艦隊(司令長官南雲忠一中将・海兵36期)に参加する。当初は加入の予定がなかったものの、前級の陽炎型駆逐艦より長い航続力が買われて急遽加入される事となった。警戒部隊指揮官大森仙太郎第一水雷戦隊司令官の指揮下、機動部隊警戒隊は10隻(軽巡《阿武隈》、第17駆逐隊《谷風、浦風、浜風、磯風》、第18駆逐隊《不知火、陽炎、霰、霞》、五航戦《秋雲》)を揃えた。 真珠湾攻撃から帰投後、陽炎駆逐艦長横井稔中佐が脳溢血で倒れた。12月22日附で横井艦長は職務を解かれ、有本(秋雲艦長)は陽炎駆逐艦長へ転任した(有本は、陽炎が沈没するまで陽炎駆逐艦長を務めた)。後任の秋雲駆逐艦長は呉海軍工廠水雷部検査官・魚雷実験部部員・製鋼部検査官・呉海軍軍需部部員の相馬正平中佐となる。 1942年(昭和17年)に入ってからはラバウル、ニューギニアおよびビスマルク諸島方面の作戦に参加する。2月から3月にかけては第五航空戦隊とともに後方に下がって三菱横浜造船所で整備の後、セイロン沖海戦に参加することとなった。しかし、ウィリアム・ハルゼー中将率いるアメリカ第16任務部隊がウェーク島と南鳥島を奇襲攻撃するに及んで、第五航空戦隊とともに警戒行動に加わったため、前進根拠地への進出は遅れる事となった。一連のセイロン島をめぐる海戦では、補給部隊の護衛に就いた。 4月10日、駆逐艦2隻(秋雲、朧は)第五航空戦隊から外され、第27駆逐隊(時雨、白露、有明、夕暮)が五航戦に編入された。同時に、4月10日附の戦隊改編により第一航空艦隊の直衛に任ずる部隊として第十戦隊(司令官木村進少将・海兵40期)が編成される。本艦は4月15日附で夕雲型駆逐艦3隻(夕雲、巻雲、風雲)が所属する第10駆逐隊(司令阿部俊雄大佐・海兵46期、3月14日編制) に編入された。また、第10駆逐隊も第十戦隊に編入された。これまでの第一水雷戦隊(司令官大森仙太郎少将・海兵41期)に代わって機動部隊の直衛に就く第十戦隊(実際には第7駆逐隊《潮、曙、漣》のかわりに第4駆逐隊《嵐、野分、萩風、舞風》が所属)は6月5日のミッドウェー海戦が初陣となったが、海戦は惨敗する。「秋雲」は海戦直前に機動部隊を離れて補給部隊の護衛に回っていた。また直後のアリューシャン攻略作戦にも参加した。 7月14日、臨時編成の第一航空艦隊が解散して第三艦隊が編成され、ひきつづき南雲忠一中将が三艦隊司令長官、草鹿龍之介少将が三艦隊参謀長となった。戦備が整うまでの間、第10駆逐隊2隻(秋雲、風雲)は佐世保鎮守府協力部隊として行動し、7月25日馬公発の第239船団の護衛を途中より行った。この間の8月7日、ガダルカナル島にアメリカ軍が上陸してガダルカナル島の戦いが始まった。8月16日、第三艦隊は柱島泊地を出撃してトラック諸島に向かうが、アメリカ機動部隊が出現した事によりソロモン諸島東方海域に急行した。第二次ソロモン海戦に参加後、9月29日からは第三水雷戦隊(橋本信太郎中将・海兵41期)の指揮下に入り、ショートランドへ進出して ガダルカナル島に対する「鼠輸送」を10月3日、6日および9日の3回にわたって行った。いずれもタサファロング沖に進入し、陸兵や糧食、武器弾薬を揚陸する。10月6日の作戦でカッターを一隻処分した以外に損害はなかった。
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