真珠湾攻撃 - 1942年前半
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「フェニックス (軽巡洋艦)」の記事における「真珠湾攻撃 - 1942年前半」の解説
1941年12月7日(日本時間12月8日)、フェニックスは真珠湾内フォード島の北東側に、病院船ソレース(英語版) (USS Solace, AH-5) の近くに停泊していた。フェニックスの見張りは、フォード島上空を飛ぶ不審な飛行機、日本機を発見する。間もなく日本機の攻撃が始まり、フェニックスは作動できる銃砲でこれに反撃した。日本側は第二航空戦隊(司令官山口多聞少将)空母蒼龍の九九式艦上爆撃機がフェニックス(目標「リ」)を攻撃し、250kg爆弾2発が命中して中破したと判定している。だがフェニックスは健在であった。午前9時40分、軽巡洋艦セントルイス (USS St. Louis, CL-49) が出港し、外洋に出ていった。午前10時10分、フェニックスは港外に出る為に動き出したが、命令によりいったん真珠湾に引き返す。午前11時すぎ、ふたたび出港することになり、炎上する戦艦列の傍を通過して湾外にむかった。 その日の午後、軽巡2隻(セントルイス、フェニックス)は軽巡デトロイト (USS Detroit, CL-8) および数隻の駆逐艦、たまたまハワイ近海で訓練中だった重巡洋艦ミネアポリス (USS Minneapolis, CA-36) と共に臨時の任務部隊を編成し、南雲機動部隊の索敵に出撃した。するとハルゼー提督の空母エンタープライズ偵察機(SBDドーントレス)がオアフ島南西で「敵艦隊」を発見し、ただちに攻撃隊が発進した。フェニックス以下の任務部隊を日本艦隊と誤認したのである。フォード島にむかったエンタープライズのF4Fワイルドキャット 6機のうち、4機は味方の対空砲火で撃墜された。 真珠湾攻撃の後、フェニックスは本国行きの輸送船団を護衛し、別の輸送船団を護衛して真珠湾に戻ってくる任務を約1ヵ月行った。任務終了後、フェニックスはサンフランシスコからメルボルン行きの輸送船団を護衛する。航海の途中、船団の行き先は日本軍が進撃してくることが想定されたジャワ島方面に変更となった。 1942年(昭和19年)2月中旬、フェニックスはジャワ島にカーチス P-40 戦闘機を緊急輸送する水上機母艦ラングレー (USS Langley, AV-3) とイギリス輸送船シーウィッチ(英語版) (HMS Seawitch) を含むMS-5船団の護衛を行った。船団自体はオーストラリアのフリーマントルを2月22日に出港し、セイロン島に向かっていた。フェニックスは2月28日にイギリス軽巡洋艦エンタープライズ(英語版) (HMS Enterprise, D52) と船団護衛の任務を交代して、ラングレーとシーウィッチの護衛にあたる予定となっていた。ところが、日本軍のジャワ島上陸が時間の問題となってきたので、ラングレーとシーウィッチは即座に船団から分離して全速力でジャワ島へ向かうよう命令され、船団を離脱した。2月27日、ラングレーは駆逐艦ホイップル(英語版) (USS Whipple,DD- 217) およびエドサル (USS Edsall, DD-219) と共にジャワ島にむけ航行中、チラチャップ(英語版、インドネシア語版)沖合で一式陸上攻撃機(高雄海軍航空隊)の爆撃を受けて損傷し、随伴艦に雷撃処分された。シーウィッチは低速ゆえラングレーから引き離されており、攻撃を免れた。攻撃を受けなかったフェニックスはしばらくの間、日本軍の脅威に備えてインド洋で哨戒し、ムンバイ行きの輸送船団の護衛に従事した(セイロン沖海戦)。
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