1941 - 1942
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/06/02 19:46 UTC 版)
「ミネアポリス (重巡洋艦)」の記事における「1941 - 1942」の解説
1941年12月7日の真珠湾攻撃当日、ミネアポリスは砲術訓練のため真珠湾から32キロ離れた海域を航行中だった。ミネアポリスは1942年1月まで哨戒を行った後、空母レキシントン (USS Lexington, CV-2) 基幹の第11任務部隊(ウィルソン・ブラウン中将)に加わった。ギルバート諸島とマーシャル諸島を攻撃する第8任務部隊(ウィリアム・ハルゼー中将)および第17任務部隊(フランク・J・フレッチャー少将)に呼応して打撃を与えるため、第11任務部隊は当初ウェーク島に向かう予定だった。しかし、1月23日に真珠湾を出撃した直後、給油艦ナチェス (USS Neches, AO–5) が伊72に撃沈され、燃料不足が懸念されたことと代わりのタンカーがいなかったこともあって、第11任務部隊のウェーク島への奇襲作戦は中止された。翌1月24日、第11任務部隊は真珠湾に帰投した。2月1日、第11任務部隊は改めてラバウルに向けて出撃した。2月20日、ミネアポリスはレキシントンを護衛中に3機の一式陸攻の空襲を受けたが、これを撃退した(ニューギニア沖海戦)。ミネアポリスは3月10日に、第17任務部隊と合同で行われた奇襲に参加し、オーエンスタンレー山脈を越えた艦載機の攻撃はラエ、サラモアの日本軍を混乱させ、補給路を脅かした。 ミネアポリスは、5月4日から8日にかけて繰り広げられた珊瑚海海戦でも、レキシントンの直衛にあたった。3機の日本機を撃墜したものの、レキシントンは被弾して失われた。しかし、オーストラリアおよびニュージーランド方面への日本軍の勢力拡大の動きを阻止した。ミネアポリスはレキシントンの生存者を救助した。続くミッドウェー海戦にも参加した。ミネアポリスは真珠湾で補給と修理を行い、ソロモン諸島方面へ向かった。8月7日からのガダルカナル島の戦いでは機動部隊を護衛し、ガダルカナル島とツラギ島への上陸を援護した。8月30日、空母サラトガ (USS Saratoga, CV-3) が伊26の雷撃により損傷し、ミネアポリスはサラトガを曳航して後方地域に向かった。9月から10月にかけてはルンガ・ポイントとフナフティ島の間で陸上部隊輸送の護衛を行った。
※この「1941 - 1942」の解説は、「ミネアポリス (重巡洋艦)」の解説の一部です。
「1941 - 1942」を含む「ミネアポリス (重巡洋艦)」の記事については、「ミネアポリス (重巡洋艦)」の概要を参照ください。
1941 - 1942
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/04/06 09:04 UTC 版)
「サンガモン (護衛空母)」の記事における「1941 - 1942」の解説
西海岸及びハワイ水域での活動後、サンガモンは1941年の春に大西洋艦隊(アーネスト・キング大将)へ配属され、アメリカ合衆国の中立期間中にはカナダやアイスランドの基地に向けて燃料を運搬した。12月7日の真珠湾攻撃時にはニューファンドランドのアルゼンチア海軍基地(英語版)で油の積み降ろし中であった。その週の内にサンガモンのスケジュールは過密なものとなり、再び南に向かった。 1942年前半にサンガモンは補助空母への転換が指定された。2月11日にハンプトン・ローズへ到着し、3日後に AVG-26 (航空機搭載護衛艦)に艦種変更される。2月25日に給油艦としての就役が解かれ、ノーフォーク海軍造船所で転換作業が始まった。サンガモンが改装を受けている春と夏の間、後に「護衛空母」と艦種が制定されることとなる補助空母の役割は増すばかりだった。サンガモンに続いて他のシマロン級給油艦から3隻が抜き出され、同様に補助空母に改装される事となった結果、サンガモンは同型の空母のネームシップとなった。サンガモンの改装では次のものが新たに設置された。153メートルに及ぶ飛行甲板、四方の長さ25メートルのエレベーター2基、格納庫、カタパルト、ソナー、対空火器および物資格納庫。また、居住設備もサンガモンの乗員定数増加と航空要員の乗艦に対応して拡大される事となった。対空兵装も5インチ砲2基、40ミリ機関砲8基および20ミリ機銃12基と変更された。8月20日、サンガモンは ACV-26 (補助空母)として、C・W・ウィーバー艦長の指揮下で再就役した。
※この「1941 - 1942」の解説は、「サンガモン (護衛空母)」の解説の一部です。
「1941 - 1942」を含む「サンガモン (護衛空母)」の記事については、「サンガモン (護衛空母)」の概要を参照ください。
1941 - 1942
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/02 15:59 UTC 版)
「ペンサコーラ (重巡洋艦)」の記事における「1941 - 1942」の解説
1941年(昭和16年)11月29日、ペンサコーラはペンサコーラ輸送船団 (Pensacola Convoy) を率いて真珠湾を出港し、マニラに向かった。これにより、12月7日(日本時間12月8日)の真珠湾攻撃から逃れることが出来た。真珠湾攻撃後、ペンサコーラ輸送船団はアメリカ統治領フィリピンからオーストラリアへ行き先が変わり、英連邦海軍の巡洋艦(キャンベラ、パース、アキリーズ)と合流、12月22日にブリスベンに入港した。 ペンサコーラは1942年(昭和17年)1月19日に帰投し、以後2月5日まではサモア諸島方面の哨戒に従事し、2月17日に空母レキシントン (USS Lexington, CV-2) を基幹とする第11任務部隊(ウィルソン・ブラウン中将)とサモア沖で合流した。第11任務部隊(旗艦レキシントン、重巡〈インディアナポリス、サンフランシスコ、ミネアポリス、ペンサコーラ〉、駆逐艦部隊)は、日本軍が1月23日に占領したばかりのニューブリテン島ラバウルを空襲すべく急行した。 2月20日、第11任務部隊はブーゲンビル島近海で日本海軍(横浜海軍航空隊)の九七式飛行艇に発見される。やがてラバウルを発進したラバウル航空隊(第四航空隊)一式陸上攻撃機17機が飛来してきたが、ペンサコーラを含む艦艇の対空砲火と上空警戒中のF4F ワイルドキャット戦闘機(レキシントン艦上機)の迎撃により、特に被害なく撃退する。陸攻17機のうち13機を撃墜、2機を不時着に追い込んだ。これを、日本側呼称でニューギニア沖海戦と呼ぶ。しかし、第11任務部隊は高速航行を続けた結果、燃料事情が心細くなり、ラバウル空襲は断念せざるを得なかった。 ペンサコーラは、第11任務部隊が3月6日に空母ヨークタウン (USS Yorktown, CV-5) を基幹とする第17任務部隊(英語版)(フランク・フレッチャー少将)と合流するまで、珊瑚海での哨戒を続けた。3月10日、第11任務部隊と第17任務部隊は合同で艦載機を飛ばし、オーエンスタンレー山脈を越えてパプア湾を経て、パプアニューギニアのラエとサラモアに奇襲を仕掛けた。ポートモレスビー作戦のためラエとサラモアを攻略中の日本軍部隊は驚き、奇襲は第六水雷戦隊(旗艦夕張)と上陸船団に手痛い損害を与え成功を収めた(ラエ・サラモアへの空襲)。3月16日、レキシントン以下の第11任務部隊は真珠湾に帰投するため第17任務部隊と分離した。ペンサコーラは4月8日にヌメアに到着し、サモアを経て4月21日に真珠湾に帰投した。ペンサコーラは空母エンタープライズ (USS Enterprise, CV-6) とともにエファテ島まで第212海兵飛行隊(英語版) を輸送するため出港し、5月26日に真珠湾に帰投した。 5月28日(日本時間5月29日)、ペンサコーラはヨークタウン級航空母艦2隻を中核とする第16任務部隊(レイモンド・スプルーアンス少将)として真珠湾を出撃する。第16任務部隊の戦力は空母2隻(エンタープライズ、ホーネット)、重巡5隻(ノーザンプトン、ペンサコーラ、ミネアポリス、ニューオーリンズ、ヴィンセンス)、軽巡アトランタ (USS Atlanta, CL-51) 、駆逐艦9隻、補給部隊であった。6月2日、第16任務部隊はミッドウェー島北東海上で第17任務部隊(ヨークタウン基幹)と合流した。先任のフレッチャー少将が2つの任務部隊を指揮する。6月4日(日本時間6月5日)、MI作戦によりミッドウェー島にむけ進撃中の日本艦隊(連合艦隊司令長官山本五十六大将)と激突。ミッドウェー海戦が生起した。 第一航空艦隊司令長官南雲忠一中将率いる南雲機動部隊の主力空母3隻(赤城、加賀、蒼龍)がクラレンス・マクラスキーのSBD ドーントレスの奇襲により炎上後、第二航空戦隊司令官山口多聞少将は残存する空母飛龍をもって反撃に出た。飛龍第一次攻撃隊は第17任務部隊を襲い、ヨークタウンに3発の爆弾を命中させた。第16任務部隊の重巡2隻(ペンサコーラ、ヴィンセンス)と駆逐艦2隻(ベンハム、バルチ)はヨークタウン救援のため、第16任務部隊を一時離脱して第17任務部隊に合流した。第17任務部隊(空母ヨークタウン、重巡アストリア、重巡ポートランド、護衛駆逐艦)では、フレッチャー提督が旗艦をヨークタウンから重巡アストリアに変更していた。そこに友永丈市大尉が率いる飛龍第二次攻撃隊(零戦6、艦攻10)がやってきた。ペンサコーラを含む護衛艦艇と直衛戦闘機は九七式艦上攻撃機4機を撃墜したものの、これらの働きも及ばずヨークタウンは魚雷2本の命中を受けて放棄せざるを得なかった。ペンサコーラは第16任務部隊に戻り、飛龍も喪失して退却する日本艦隊を追った。6月13日、ペンサコーラは真珠湾に帰投した。 帰投後間を置かず、6月22日にはエンタープライズとともにミッドウェー島へ第22海兵飛行群と1,157名の海兵隊員を輸送し、真珠湾に戻った後はハワイ海域で哨戒と訓練を行った。8月7日、アメリカ軍はガダルカナル島とフロリダ諸島に上陸し、ガダルカナル島攻防戦(ソロモン諸島の戦い)が始まった。巡洋艦隊は空母サラトガ (USS Saratoga, CV-3) 、ホーネット (USS Hornet, CV-8) 、ワスプ (USS Wasp, CV-7) の護衛部隊として、ソロモン海域に急行する。しかし、エンタープライズは8月24日の第二次ソロモン海戦で損傷、サラトガは8月31日に伊26の雷撃で損傷、それぞれ戦線を離脱した。ワスプも9月15日に伊19の雷撃で沈没した。ペンサコーラは9月26日にヌメアに到着し、ホーネットとともに第17任務部隊(ジョージ・D・マレー少将:空母ホーネット、重巡ペンサコーラ、重巡ノーザンプトン、軽巡サンディエゴ、軽巡ジュノー、駆逐艦6隻)を構成し、日本軍を求めてガダルカナル島とサンタイサベル島間の海域に向かった。10月24日にトーマス・C・キンケイド少将が指揮する第16任務部隊(空母エンタープライズ、戦艦サウスダコタ、重巡ポートランド、軽巡サンフアン、駆逐艦8隻)と合流。第61任務部隊(英語版)は徐々にガダルカナル島とツラギ島の地域に近づいていった。 10月26日、味方偵察機が日本艦隊を発見し、やがて互いの攻撃隊が飛び交って南太平洋海戦が始まった。第61任務部隊の攻撃隊は南雲機動部隊本隊の空母翔鶴と瑞鳳、機動部隊前衛の重巡洋艦筑摩に損害を与えた。一方で南雲機動部隊攻撃隊も第61任務部隊に襲いかかった。魚雷と爆弾の命中を受けてホーネットは航行不能になった。マレー少将は旗艦をペンサコーラに変更し、ノーザンプトンにホーネットの曳航を命じた。しかし、最終的にはホーネットは放棄された。ペンサコーラはホーネットの乗組員188名を救助し、10月30日にヌメアに到着した。 11月2日、ペンサコーラはガダルカナル島向けの海兵隊の増援部隊と物資を乗せた輸送船団を護衛すべくアオラ湾を出撃した。11月12日からの第三次ソロモン海戦ではエンタープライズを護衛し(戦艦2隻〈ワシントン、サウスダコタ〉、重巡〈ペンサコーラ、ノーザンプトン〉、軽巡サンディエゴ、駆逐艦部隊)、エンタープライズの艦載機とヘンダーソン飛行場の航空機は、舵故障でのた打ち回る戦艦比叡を撃沈し、重巡洋艦衣笠や増援の日本軍部隊を乗せた11隻の輸送船などを撃沈および撃破して打撃を与えた。
※この「1941 - 1942」の解説は、「ペンサコーラ (重巡洋艦)」の解説の一部です。
「1941 - 1942」を含む「ペンサコーラ (重巡洋艦)」の記事については、「ペンサコーラ (重巡洋艦)」の概要を参照ください。
- 1941 - 1942のページへのリンク