1941 - 1943
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「ルイビル (重巡洋艦)」の記事における「1941 - 1943」の解説
1941年(昭和16年)12月7日(日本時間12月8日)の真珠湾攻撃時、本艦はA・T・スコット (A. T. Scott) およびプレジデント・クーリッジ (SS President Coolidge) を護衛し、タラカン島から真珠湾に向かう途中にあった。ハワイに向かう途中、損害調査のため短期間停泊し、その後カリフォルニアへ向かう。カリフォルニアでルイビルは、空母ヨークタウン (USS Yorktown, CV-5) を基幹とする第17任務部隊(英語版)(フランク・J・フレッチャー中将)に参加し、1942年(昭和17年)1月6日にサンディエゴを出航、空母エンタープライズ (USS Enterprise, CV-6) 基幹の第8任務部隊(ウィリアム・ハルゼー中将)とともに、サモアに向かう。1月22日にサモアで部隊を上陸させると、その帰路の途中に初の実戦参加を行う。ルイビルの最初の実戦参加は、ギルバート諸島及びマーシャル諸島に対する空母艦載機部隊の攻撃支援であった。このマーシャル・ギルバート諸島機動空襲でルイビルは艦載機を一機失っている。 真珠湾で短期間停泊した後、ルイビルはエリス島近辺のアメリカ軍基地を支援し、かつ海域を偵察した。3月の初めにはANZAC部隊に合流し、ビスマルク諸島からソロモン諸島にかけての海域で作戦活動に従事、日本軍の前進に備えた(ニューギニアの戦い)。空母レキシントン (USS Lexington, CV-2) を基幹とする第11任務部隊(ブラウン中将)と第17任務部隊(フレッチャー少将)とクレース部隊(クレース少将)はサラマウア、ラエ、ラバウルに向かい、何日もの間、多くの敵目標に対して空襲を行った(ラエ・サラモアへの空襲)。 同方面での作戦活動後、ルイビルは真珠湾に帰投し、その後、サンフランシスコのメア・アイランド海軍造船所で兵装の増強が行われた。5月31日にルイビルはアリューシャン列島に向かい第8任務部隊に参加する。この期間のルイビルの任務は主に船団護衛であった。8月7日、本艦と重巡インディアナポリス (USS Indianapolis, CA-35) などからなる艦隊はキスカ島に対する艦砲射撃を行った。この艦砲射撃による日本側の被害は水上戦闘機1機破損、戦死者2名であった。 「レンネル島沖海戦」も参照 11月11日、ルイビルはサンフランシスコを出港し、真珠湾に向かった。数日後、ルイビルは南太平洋方面に向かい、ニューカレドニア行きの輸送船団を護衛して進出した。護衛終了後、ルイビルはエスピリトゥサント島で第67任務部隊と合流し、ガダルカナル島攻防戦で日本艦隊と戦うためソロモン諸島に向かった。ロバート・C・ギッフェン少将が指揮する第18任務部隊として行動中の1943年(昭和18年)1月29日、ラバウル航空隊の九六式陸上攻撃機と一式陸上攻撃機に襲われる。日没直後から続いた夜間攻撃により、旗艦ウィチタ (USS Wichita, CA-45) とルイビルに魚雷が命中したが、不発だった。だが九六陸攻の雷撃により姉妹艦シカゴ (USS Chicago, CA-29) は被雷して大破、ルイビルが曳航を開始した。1月30日、曳船ナバホ (USS Navajo, AT-64) が合流してシカゴの曳航を引き継ぐ。そこに再び一式陸攻11機が出現して空襲を開始、第16任務部隊(エンタープライズ)や護衛空母から派遣されたF4F艦上戦闘機の掩護も虚しく、複数の魚雷が命中したシカゴは沈没した。ほかに駆逐艦ラ・ヴァレット (USS La Vallette, DD-448) が中破した。 4月に入り、ルイビルは真珠湾を経由して再びアリューシャン戦線に戻り、第16任務部隊に合流。5月11日から30日までのアッツ島の戦いおよび、キスカ島への砲撃に参加した。
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