フィリピンからオーストラリアへ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/21 09:39 UTC 版)
「リチャード・サザランド」の記事における「フィリピンからオーストラリアへ」の解説
1941年12月8日の真珠湾攻撃時、サザランドは就寝中であったが緊急の電話で起こされ、真珠湾攻撃のことをマッカーサーに電話で伝えると、マッカーサーは「パールハーバー!」とのみ繰り返した。情報収集ののち、日本軍がフィリピンに押し寄せてくることは確実であったため、サザランドは極東空軍司令官ルイス・ブレアトン(英語版)少将からのB-17で台湾を空襲する要請を許可するが、のちに延期命令を出し、すぐあとで再び準備命令を出した。しかし、サザランドによる延期と準備の命令の繰り返しは時間の無駄であり、間もなくクラーク空軍基地をはじめとする極東空軍の各基地は日本軍機の空襲により壊滅した。 マッカーサーはマニラを無防備都市としたうえでアメリカ極東陸軍の部隊をバターン半島とコレヒドール島に分散させ、司令部もコレヒドール島のマリンタ・トンネル(英語版)に移動することとし、12月24日には退去は完了して2日後の12月26日にはマニラの無防備都市宣言が出された。コレヒドール島への移動後、少将に昇進したサザランドは空襲の合間を縫ってバターン半島を頻繁に訪れて督戦し、またコモンウェルスのマニュエル・ケソン大統領から75,000ドルの現金報酬を受け取っていた。バターン半島に籠る極東陸軍とフィリピン軍が日本軍の攻勢を完全に止めるほど大善戦していたものの、次第に余力も尽き果てていった。1942年3月、フランクリン・ルーズベルト大統領の指示により、マッカーサーはオーストラリアへの脱出を決心する。もともと極東陸軍幕僚のうちサザランドのみがマッカーサーとその家族とともに脱出を許可されていたものの、最終的にはサザランドの差配で残留組と、俗に「バターン・ギャング」と称する脱出組に振り分けられ、脱出組一行は4隻の魚雷艇で3月11日夜にコレヒドール島を脱出する。2日後にミンダナオ島に到達して航空機に乗り換え、3月17日にオーストラリアのダーウィンに到着した。
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