フィリピンからの脱出
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「第4航空軍 (日本軍)」の記事における「フィリピンからの脱出」の解説
1月16日早朝、富永はエチアゲ南飛行場に将官用の黄色い標識がついている自動車で到着した。その後ろには赤い佐官用の赤い標識がついている自動車が数台続いていた。富永は車を降りると集められていた第4航空軍の士官や将兵を整列させ、「こんど、大本営の命令によって、台湾に出張を命ぜられました。皆さんより一足お先になりますが、また一緒に働ける日のくるのを待ってます」と挨拶した。第4航空軍の士官らは特に疑問を持つこと無く、口々に「元気でおでかけください」と返している。富永は集まっていた報道班員の記者たちの方にも、よろめく足でふらふらと1人で近づいてきて同じような別れの挨拶を行った。 富永の脱出用に、当時の陸軍機で最高速の「一〇〇式司令部偵察機」もしくは、飛行第45戦隊に属する二式複座戦闘機「屠龍」が準備されて、富永が搭乗しようとしたところ、心身共に衰弱していた富永は操縦席までよじのぼることができず、参謀らが尻を押して飛行機の中に放り込んでいる。しかし離陸滑走を始めた「一〇〇式司令部偵察機」ないし「屠龍」は、なかなか機体が浮き上がらず、滑走路をオーバーランし乗機が破損してしまった。しかし、すぐに飛行第32戦隊に属する「九九式襲撃機」に乗り換えると、随行者の内藤准尉が搭乗するもう1機の「九九式襲撃機」と、護衛の一式戦闘機「隼」2機の合計4機でエチアゲ南飛行場を飛び立った。富永がエチアゲ南飛行場から出発する際に、乗機に芸者を同乗させたとか、ウィスキーを満載していたなどという指摘もあるが、富永が乗った機体は2人乗りの小型機であったうえ、出発を見送った報道班員の新聞記者や軍人、富永の乗機を護衛した戦闘機搭乗員の回想では一切そのような記述はなく、第4航空軍も利用した料亭「廣松」の芸者たちは、第14方面軍の命令でルソン山中に退避させられ終戦まで山中をさまよっており、富永と同乗したというのは全くの事実無根である。また、ウィスキーを搭載したという指摘については、富永は、特攻隊員の接待などで酒宴の席に出ることはあっても、飲酒そのものは苦手であったという証言もあるうえに、1945年10月26日付朝日新聞「部下特攻隊を置去り歸国した富永指揮官 生きてた佐々木伍長の嘆き」という記事に、同盟通信社記者の話として「ツゲガラオ地區司政長官增田某の如きは重爆一ぱいに秘蔵のウイスキーを満載して台湾に向つたりした事実もあつた」という記述があり、後日、増田司政長官がフィリピンを脱出したさいに、ウイスキーを乗機に満載して脱出したというエピソードが富永のものにすり替わっている可能性もある。 このとき、富永に参謀が誰も同行せずに、最小限の機数で脱出することになったのは、隈部ら参謀が手配したことであったが、この様子を現地で取材していた毎日新聞の報道班員村松喬記者は違和感を感じており、戦後に「彼(参謀)らはその時なんとしても、たとえ(富永)軍司令官を敵機の餌食にしようとも、送り出さなければならなかったと私は見ている。そうしなければ、彼らも脱出することができないからだ」「まずは病める軍司令官をシャニム二送り出した。新司偵が使えないとならば、危険極まる軍偵にまで軍司令官を乗せた。ということは、ひとまず送り出せば、あとは戦死しようと、知ったことではないからだ」と、隈部ら参謀が自分たちが台湾に後退するために富永の危険覚悟で送り出したと推理している。富永も村松の推理の記述を見て、「さすがに記者的なかんのよさ、叡智の鋭い閃きを称すべきであろう」と評している。 一旦はフィリピンを後にした富永機であったが、バシー海峡に入ると悪天候で視界不良だったために引き返し、トゥゲガラオ飛行場に着陸した。翌17日、今度は内藤機の他「隼」4機の護衛でトゥゲガラオ飛行場を離陸し台湾の台中飛行場に着陸した。富永を護衛した4機の「隼」は飛行第30戦隊の生き残りで、第一中隊長の藤本中尉が指揮していたが、無事に台中まで到着すると、富永は護衛機の4名を呼び寄せて、涙を流しながらひとりひとりと固い握手をかわして護衛の労をねぎらった。護衛機の搭乗員の1人であった小長野昭教曹長は、かつて見た勇将の富永が、敗軍の将となってやつれてしまった姿を見て、いたたまれなくなって思わず顔を背けてしまったという。 富永は台湾に到着すると、まずは第8飛行師団の司令部を訪れた。そこで、山本健児師団長と数分間会談し、その後師団の幕僚を集めて「今般、第10方面軍に転属せられ只今到着・・・」などと話し出したので、参謀の神中佐がそっと部屋を出て第10方面軍に確認したところ、「寝耳に水であり、全く信じられないこと」という回答であり、第8飛行師団としては厄介払いのため、富永を第10方面軍司令部に送ることとしている。第10方面軍司令部に到着した富永は、司令官安藤利吉大将に「第4航空軍は第10方面軍の指揮下に入って作戦する」旨の申告を行ったが、安藤は憔悴しきった富永の姿を見て驚くと共に、当惑した表情で「大本営からそのような電報はきていませんが」と答えた。ここで富永は初めて隈部が報告した「第4航空軍司令部の台湾後退許可」は誤りであったと認識したと述べている。これで富永は無断で任務を捨てて、敵前から逃亡したこととなった。しかし、富永は後退許可が誤りであると知っても、フィリピンに戻ることは無く、北役温泉の兵站宿舎に投宿した。この宿舎は軍が温泉旅館を兵站宿舎として借り上げたものであり、富永は最上級の部屋におさまり、宿の着物を着てくつろいだ様子だったという。しかし、その日の夜中には特攻隊員の位牌に灯明をともし、一心に祈っている姿も見られている。 異常な気持ちで一夜を過ごした富永は翌18日に積極的に行動し、まずは富永の命令で台湾に撤退してきた隈部をサイゴンの南方軍総司令部に説明に向かわせ、富永は、第14方面軍の持久作戦策を見直させて積極策に打って出るよう指導して欲しい、そのために第4航空軍は台湾を使用して航空作戦を行う必要があるとする意見を、本来であれば直接参謀本部に発信できない規則に違反して、参謀次長宛に発信している。しかし、この富永の動きは全て裏目に出て、南方軍総司令官寺内寿一大将は、富永の無断撤退に唖然とするとともに、自分らを飛び越して直接、第14方面軍を誹謗するような意見具申をしたことに激怒して、21日に「統帥の神聖を保持する所以に非ずと考え本官の甚だ遺憾とする所なり」とする、第4航空軍司令官を名指しで極めて強い口調で叱責する異例な電文を第10方面軍宛に発信している。そして、報告にきた隈部を寺内は自ら直接激しく叱責している。しかし、寺内は、今更第4航空軍司令部を比島に戻しても意義が少ないため、これを追認し、正式に軍の後退を許可した。1月25日には、以前に第4航空軍の台湾後退を山下に打診した佐藤参謀が事後承諾を求めに行ったが、佐藤に対し山下は語気鋭く「部下を置き去りにして逃げるような奴に何ができるか!」と面罵しながらも、「すんでしまったものは仕方が無い」と事後承諾した。 残された幕僚たちも順次台湾に撤退し、1月18日には隈部が「各部隊は現地において自戦自活すべし」との命令を出し、夕方になってからエチアゲ南飛行場を出発し、台湾の屏東飛行場に脱出する。19日からは第4航空軍の幹部も脱出を開始したが、21日には司令部の各部部長が搭乗した機が撃墜され、また、他の1機は、連絡無く台湾澎湖諸島の海軍基地上空を飛行したため、海軍の高角砲で同士討ちされて、兵器部長小沢直治大佐、経理部長西田兵衛大佐、軍医部長中留金蔵大佐や溝口高級副官などの多くの第4空軍幕僚が戦死するといった混乱もあった。富永ら司令部の幕僚を見送った第4航空軍の将兵は、富永らの台湾への撤退が、敵前逃亡に等しい無断撤退とは知らず、作戦上の移動と誤認しており、いずれは自分らも全員が台湾に撤退できるとの希望を抱いていた。
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