フィリピンからの脱出とは? わかりやすく解説

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フィリピンからの脱出

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/26 02:32 UTC 版)

第4航空軍 (日本軍)」の記事における「フィリピンからの脱出」の解説

1月16日早朝富永エチアゲ飛行場将官用の黄色標識ついている自動車到着したその後ろには赤い佐官用の赤い標識ついている自動車が数台続いていた。富永は車を降りる集められていた第4航空軍士官将兵整列させ、「こんど、大本営命令によって、台湾出張を命ぜられました。皆さんより一足お先になりますが、また一緒に働ける日のくるのを待ってます」と挨拶した第4航空軍士官らは特に疑問を持つこと無く口々に「元気でおでかけください」と返している。富永集まっていた報道班員記者たちの方にも、よろめく足でふらふらと1人で近づいてきて同じよう別れ挨拶行った富永脱出用に、当時陸軍機で最高速の「一〇〇式司令部偵察機もしくは飛行45戦隊属す二式複座戦闘機屠龍」が準備されて、富永搭乗しようとしたところ、心身共に衰弱していた富永操縦席までよじのぼることができず、参謀らが尻を押して飛行機中に放り込んでいる。しかし離陸滑走始めた一〇〇式司令部偵察機」ないし「屠龍」は、なかなか機体浮き上がらず滑走路オーバーランし乗機破損してしまった。しかし、すぐに飛行32戦隊属する「九九式襲撃機」に乗り換えると、随行者内藤准尉搭乗するもう1機の「九九式襲撃機」と、護衛一式戦闘機「隼」2機の合計4機でエチアゲ飛行場飛び立った富永エチアゲ飛行場から出発する際に、乗機芸者同乗させたとか、ウィスキー満載していたなどという指摘もあるが、富永乗った機体2人乗り小型機であったうえ、出発見送った報道班員新聞記者軍人富永乗機護衛した戦闘機搭乗員回想では一切そのような記述はなく、第4航空軍利用した料亭「廣」の芸者たちは、第14方面軍命令ルソン山中退避させられ終戦まで山中さまよっており、富永同乗したというのは全くの事実無根である。また、ウィスキー搭載したという指摘については、富永は、特攻隊員接待などで酒宴の席に出ることはあっても、飲酒そのものは苦手であったという証言もあるうえに、1945年10月26日朝日新聞部下特攻隊置去り歸国した富永指揮官 生きて佐々木伍長嘆き」という記事に、同盟通信社記者の話として「ツゲガラオ地區司政長官增田某の如き重爆一ぱいに秘蔵ウイスキー満載して台湾に向つたりした事実もあつた」という記述があり、後日増田司政長官フィリピン脱出したさいに、ウイスキー乗機満載して脱出したというエピソード富永のものにすり替わっている可能性もある。 このとき、富永参謀誰も同行せずに、最小限の機数で脱出することになったのは、隈部ら参謀手配したことであったが、この様子を現地取材していた毎日新聞の報道班員村松喬記者違和感感じており、戦後に「彼(参謀)らはその時なんとしても、たとえ(富永軍司令官敵機餌食にしようとも、送り出さなければならなかったと私は見ている。そうしなければ、彼らも脱出することができないからだ」「まずは病める軍司令官をシャニム二送り出した新司偵使えないとならば、危険極まる軍偵にまで軍司令官乗せたということはひとまず送り出せば、あとは戦死しようと、知ったことではないからだ」と、隈部ら参謀自分たちが台湾後退するために富永の危険覚悟送り出した推理している。富永村松推理記述見て、「さすがに記者的なかんのよさ、叡智の鋭い閃き称すべきであろう」と評している。 一旦はフィリピンを後にした富永であったが、バシー海峡に入ると悪天候視界不良だったために引き返しトゥゲガラオ飛行場着陸した。翌17日今度内藤機の他「隼」4機の護衛トゥゲガラオ飛行場離陸し台湾台中飛行場着陸した富永護衛した4機の「隼」は飛行30戦隊生き残りで、第一中隊長の藤本中尉指揮していたが、無事に台中まで到着すると、富永護衛機の4名を呼び寄せて、涙を流しながらひとりひとり固い握手かわして護衛労をねぎらった護衛機搭乗員1人であった長野昭教曹長は、かつて見た勇将富永が、敗軍の将となってやつれてしまった姿を見て、いたたまれなくなって思わず顔を背けてしまったという。 富永台湾到着すると、まずは第8飛行師団司令部訪れた。そこで、山本健児師団長数分会談しその後師団幕僚集めて今般、第10方面軍転属せられ只今到着・・・」などと話し出したので、参謀神中佐がそっと部屋出て10方面軍確認したところ、「寝耳に水であり、全く信じられないこと」という回答であり、第8飛行師団としては厄介払いのため、富永を第10方面軍司令部に送ることとしている。第10方面軍司令部到着した富永は、司令官安藤利吉大将に「第4航空軍は第10方面軍指揮下に入って作戦する」旨の申告行ったが、安藤憔悴しきった富永の姿を見て驚くと共に当惑した表情で「大本営からそのような電報はきていませんが」と答えた。ここで富永初めて隈部が報告した第4航空軍司令部台湾後退許可」は誤りであった認識した述べている。これで富永無断任務捨てて敵前から逃亡したこととなった。しかし、富永後退許可誤りであると知っても、フィリピンに戻ることは無く、北役温泉兵站宿舎投宿した。この宿舎は軍が温泉旅館兵站宿舎として借り上げたものであり、富永最上級部屋おさまり、宿の着物着てくつろいだ様子だったという。しかし、その日夜中には特攻隊員位牌灯明をともし、一心に祈っている姿も見られている。 異常な気持ち一夜過ごした富永は翌18日積極的に行動し、まずは富永命令台湾撤退してきた隈部をサイゴン南方軍総司令部説明に向かわせ、富永は、第14方面軍持久作戦策を見直させて積極策に打って出るよう指導して欲しい、そのために第4航空軍台湾使用して航空作戦を行う必要があるとする意見を、本来であれば直接参謀本部発信できない規則違反して参謀次長宛に発信している。しかし、この富永動き全て裏目に出て南方軍総司令官寺内寿一大将は、富永無断撤退唖然とするとともに自分らを飛び越して直接第14方面軍誹謗するような意見具申をしたことに激怒して21日に「統帥神聖保持する所以非ず考え本官甚だ遺憾とする所なり」とする、第4航空軍司令官名指し極めて強い口調叱責する異例な電文を第10方面軍宛に発信している。そして、報告にきた隈部を寺内は自ら直接激しく叱責している。しかし、寺内は、今更第4航空軍司令部比島戻して意義少ないため、これを追認し、正式に軍の後退許可した1月25日には、以前第4航空軍台湾後退山下打診した佐藤参謀事後承諾求め行ったが、佐藤対し山下語気鋭く部下置き去りにして逃げるような奴に何ができるか!」と面罵しながらも、「すんでしまったものは仕方が無い」と事後承諾した。 残され幕僚たちも順次台湾撤退し1月18日には隈部が「各部隊現地において自戦自活すべし」との命令出し夕方になってからエチアゲ飛行場出発し台湾屏東飛行場脱出する19日からは第4航空軍幹部脱出開始したが、21日には司令部各部部長搭乗した機が撃墜されまた、他の1機は、連絡無く台湾澎湖諸島海軍基地上空飛行したため、海軍高角砲同士討ちされて、兵器部長小沢直治大佐経理部長西兵衛大佐軍医部中留金蔵大佐溝口高級副官などの多く第4空軍幕僚戦死するといった混乱もあった。富永司令部幕僚見送った第4航空軍将兵は、富永らの台湾へ撤退が、敵前逃亡等し無断撤退とは知らず作戦上の移動誤認しており、いずれは自分らも全員台湾撤退できるとの希望抱いていた。

※この「フィリピンからの脱出」の解説は、「第4航空軍 (日本軍)」の解説の一部です。
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