フィリピンでの戦い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/12 08:24 UTC 版)
「霞 (朝潮型駆逐艦)」の記事における「フィリピンでの戦い」の解説
詳細は「レイテ沖海戦」を参照 第五艦隊司令長官志摩清英中将が指揮する第二遊撃部隊(那智、足柄 、軽巡阿武隈、第18駆逐隊、第7駆逐隊《潮、曙》、第21駆逐隊《若葉、初春、初霜》)は、台湾沖航空戦の残敵を掃討する命令を受け、10月15日に呉を出撃した。しかし16日に米機動部隊が健在であることが判明し、レイテ湾に来襲した米軍を撃滅するため、第21駆逐隊を除く第二遊撃部隊がスリガオ海峡に向かった。25日午前3時過ぎにスリガオ海峡に突入したが、阿武隈が被雷し、那智が最上と衝突したため突入を断念し、残存艦艇はコロン湾に退避した。軽巡鬼怒の救援に向かった不知火が27日に空襲で沈没し、井上司令も戦死した。 日本軍はレイテ沖海戦後、陸軍兵力をルソン島からレイテ島へ移動する多号作戦を発動した。霞は10月31日-11月1日の第二次作戦の警戒隊に駆逐艦沖波、曙、潮、初春、初霜、海防艦4隻と共に参加、輸送船4隻を護衛した。能登丸が沈没したが、輸送作戦は成功した。5日にマニラ湾の大空襲で那智が沈没、曙が大破し、霞と初春、初霜、潮は乗員の救助を行った。11月8-9日、霞は第四次作戦の警戒隊に秋霜、潮、朝霜、長波、若月の駆逐艦5隻と海防艦4隻で参加、輸送船3隻を護衛した。空襲で高津丸、香椎丸、海防艦1隻を撃沈され、揚陸も重火器や弾薬の一部にとどまった。帰路でオルモック湾へ向かう第三次輸送部隊と合流。艦隊を再編し、霞、秋霜、潮、初春、竹の5隻がマニラ湾に帰投したが、第三次輸送部隊は11日に空襲を受け、朝霜を除いて全滅した。 13日、マニラ湾は再び空襲を受け、軽巡木曾と駆逐艦4隻(曙、沖波、秋霜、初春)が沈没または着底した。同日深夜、航行可能な駆逐艦5隻(霞、初霜、朝霜、潮、竹)は第五艦隊司令部を乗せ、マニラを脱出した。15日に第18駆逐隊は解隊され、霞は第7駆逐隊に編入したが、僚艦2隻のうち潮は修理が必要で、曙は沈没していた。 11月20日に第一水雷戦隊は解隊され、第7駆逐隊は第二水雷戦隊に編入。木村少将が戦隊司令官になり、霞は第二水雷戦隊旗艦を務めた。第二遊撃部隊は22日、リンガ泊地に到着した。霞は座礁により大破した戦艦榛名 を護衛するため、旗艦を潮に変更して初霜と共にリンガを出発。29日にシンガポールで榛名を護衛し、12月5日に台湾・馬公に到着した。護衛を終えた霞と初霜は、船団護衛の命令を受けて台湾・高雄へ向かったが、レイテ方面の戦局の悪化を理由に中止され、10日にベトナム・カムラン湾に到着した。17日朝、霞と初霜は油槽船日栄丸を護衛してカムラン湾を出発し、同船分離後はマレー半島北東タイランド湾で米潜水艦の攻撃を受けて大破した重巡妙高に合流。霞は妙高の曳航を試みたが、曳索が切れて断念した。 詳細は「礼号作戦」を参照 20日、フィリピン・ミンドロ島を攻撃する礼号作戦が発動された。霞は第二遊撃部隊本隊に復帰し、22日にカムラン湾に到着した。礼号作戦には足柄、軽巡大淀、駆逐艦5隻(霞、清霜、朝霜、榧、杉、樫)と共に参加し、霞は第二水雷戦隊旗艦を務めた。夜間空襲で清霜が沈没した。霞は魚雷4本を発射、米軍の機銃掃射で5人が戦死し、清霜の乗員を救助して戦場を離脱した。28日夕刻にカムラン湾に戻った。霞は足柄、大淀、朝霜と共にシンガポールへ向かった。 1945年(昭和20年)1月1日、4隻はシンガポールに到着し、霞は修理と整備を行った。3日、第二水雷戦隊司令官は古村啓蔵少将に交代した。25日、第7駆逐隊に響が編入し、霞、潮、響の3隻となった。 2月上旬、第二水雷戦隊の霞と初霜、朝霜は北号作戦に参加した。第四航空戦隊(伊勢、日向、大淀)を護衛してシンガポールを出発。香港で野風、神風を編入し、2月20日に呉に帰投した。
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