フィリピンでの特別攻撃隊
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「フィリピンの戦い (1944-1945年)」の記事における「フィリピンでの特別攻撃隊」の解説
レイテ沖作戦で海軍が神風特別攻撃隊を出撃させると、陸軍も日本本土で編成していた「万朶隊」や「富嶽隊」をフィリピンに進出させて第4航空軍の指揮下に入れ、陸海軍ともに多数の特攻機を繰り出し、フィリピン戦で海軍航空隊は特攻機333機を投入し、420名の搭乗員を失い、陸軍航空隊は210機を特攻に投入し、251名の搭乗員を失った。フィリピン戦における日本陸海軍合計での特攻による損失機数は、戦闘における全損失機数約4,000機の14 %に過ぎなかったが。一方で連合軍は、特攻によりフィリピンだけで、22隻の艦艇が沈められ、110隻が撃破された。これは日本軍の通常攻撃を含めた航空部隊による全戦果のなかで、沈没艦で67 %、撃破艦では81 %を占めており、特攻は相対的に少ない戦力の消耗で、きわめて大きな成果をあげたことは明白であった。 特攻が大きな戦果を挙げた要因はその命中率の高さにあった。アメリカ軍の公式資料によれば、フィリピン戦の期間中、航空機による通常攻撃の命中率はわずか3.3 %に過ぎなかったが、特攻の命中率は31.9 %と高い水準であり、実に通常攻撃の約10倍であった。この命中率は、アメリカ海軍の対空装備の射程範囲内に入った航空機の命中率で、艦載機に撃墜された航空機も母数に入っているが、実際に攻撃してきた特攻機の命中率はさらに向上し、1944年10月から1945年3月までの平均で56 %にも上っている。この有効率の高さを、対ゼロ戦空戦戦術「サッチウィーブ」の考案者でもあり、フィリピン戦時は航空参謀であったジョン・サッチ少佐 は「我々が誘導ミサイルを手にする以前の誘導ミサイルであった」「人間の脳と目と手で誘導され、誘導ミサイルよりさらに優れていた」「時代の先を行く兵器であった」と分析している。 特攻で被った損害を重く見たアメリカ軍の司令官たちは、それぞれに特攻が戦局に与える影響を懸念し始めた。連合軍太平洋方面軍・アメリカ太平洋艦隊司令チェスター・ニミッツ元帥は「神風特別攻撃隊という攻撃兵力はいまや連合軍の侵攻を粉砕し撃退するために、長い間考え抜いた方法を実際に発見したかのように見え始めた」と憂慮し、ハルゼーは「いかに勇敢なアメリカ軍兵士と言えども、少なくとも生き残るチャンスがない任務を決して引き受けはしない」「切腹の文化があるというものの、誠に効果的なこの様な部隊を編成するために十分な隊員を集め得るとは、我々には信じられなかった」と衝撃を受けて、マッカーサーも「カミカゼが本格的に姿を現した。この恐るべき出現は、連合軍の海軍指揮官たちをかなりの不安に陥れ、連合国海軍の艦艇が至るところで撃破された。空母群はカミカゼの脅威に対抗して、搭載機を自らを守る為に使わねばならなくなったので、レイテの地上部隊を掩護する事には手が回らなくなってしまった」と指摘した。 しかし、陸軍の第4航空軍が、特攻に加えて、飛行場や揚陸基地といったアメリカ軍の弱みを巧みについた作戦を展開していたのに対して、海軍は特攻を主体としてアメリカ軍空母部隊を主要目標としていたため、特攻はアメリカ軍に大きな損害を与えたものの、進撃を撃退するまでには至らず、アメリカ軍はレイテ島、ミンダナオ島、ルソン島と進撃を続けたので、特攻は結局のところは遅滞戦術のひとつに過ぎなかった。マッカーサーは特攻機とアメリカ艦隊の戦闘を見て「ありがたい。奴らは我々の軍艦を狙っているが、ほとんどの軍艦は一撃をくらっても耐えうるだろう。しかし、もし奴らが我々の軍隊輸送船をこれほど猛烈に攻撃してきたら、我々は引き返すしかないだろう。」と日本軍の攻撃目標選定の誤りを指摘し。アメリカ軍の公式記録でも、「特攻が開始されたレイテ作戦の前半には、レイテ海域に物資を揚陸中の輸送艦などの「おいしい獲物」がたっぷりあったのに対して、アメリカ軍は陸上の飛行場が殆ど確保できていなかったので、非常に危険な状況であったが、日本軍の航空戦力の主力は通常の航空作戦を続行しており、日本軍が特攻により全力攻撃をかけてこなかったので危機は去った。」と評価していた。 フィリピンの防衛には失敗したものの、日本軍は特攻の効果に自信を深めていた。また、フィリピンを失い、いよいよ日本本土にもアメリカ軍が迫るといった追い詰められた状況では、特攻にしか頼る道はないとの日本軍の窮状もあって、沖縄戦では特攻戦法を軸にして戦うという方向性が示され、日本軍内の特攻に対する反対意見は次第に封殺されていくこととなった。一方で、フィリピンで異常強烈な体当たり戦法に大損害を被ったアメリカ軍は、数々の特攻対策を講じてそれを迎え撃ち、沖縄戦では第二次世界大戦でも最大級の空海の激戦が繰り広げられることとなった。
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