レイテ沖海戦後
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11月1日、ブルネイにて、雪風は僚艦の磯風へ25mm機銃弾1,500発を譲った。11月5日、ブルネイに向かう隼鷹、利根、木曾の嚮導任務を命じられ、翌6日朝、浦風と共にブルネイを出港。昼11時40分頃、隼鷹、木曾らを護衛してブルネイに入港する。11月8日には第一遊撃部隊(大和、長門、金剛、榛名、足柄、矢矧、第17駆逐隊)及び卯月、夕月と共に、マニラへ向かう隼鷹、利根、木曾の護衛を行う。8日3時頃、ブルネイを出港すると、9日午前、雪風を含む第一遊撃部隊はアメリカ軍の注意を引き付ける囮の役目を任され、隼鷹、利根、木曾、卯月、夕月と分離。囮となった第一遊撃部隊は9日から10日にかけて数回転進を繰り返す。その間2度アメリカ軍の哨戒機と遭遇したが幸いにも敵の襲撃は受けなかった。隼鷹らは10日、無事にマニラへ到着し、雪風ら第一遊撃部隊も11日にブルネイに帰還した。 レイテ沖海戦後、日本軍艦隊の多くは日本へ撤退することになった。この間艦隊の編制がかわり、第十戦隊は解隊、第17駆逐隊は第二水雷戦隊所属となる。雪風は一時的に第17駆逐隊の司令駆逐艦となるが、空襲による戦死者水葬のため出港が遅れそうになり、司令駆逐艦は浦風に戻った。11月16日、戦艦3隻(大和、長門、金剛)、軽巡矢矧の護衛としてブルネイ泊地を出港した。雪風らが出港する直前、アメリカ軍によるマニラ空襲を逃れた初霜、霞、朝霜がブルネイに入港してきたが、この時雪風は弾薬を消耗した初霜へ12.7cm主砲弾200発、25mm機銃弾9,000発、13mm機銃弾3,000発を渡した。ブルネイから内地へ向かう途中、松型駆逐艦2隻が分離し、艦隊の護衛は第17駆逐隊の雪風、浦風、浜風、磯風のみとなった。11月21日、金剛と浦風が台湾沖で米潜水艦シーライオン(USS Sealion,SS-315)の雷撃で撃沈される。浦風は谷井保駆逐隊司令以下全員が戦死した。雪風は大和、長門を護衛して緊急退避、浜風、磯風が金剛生存者の救助に従事する。11月24日に呉に到着し、第17駆逐隊の司令艦は浜風に変更となる。雪風は浜風、磯風と共に長門を護衛して横須賀港に向かい、11月25日、横須賀へ入港した。休む間もなく、雪風、浜風、磯風は折り返しで空母信濃を呉まで護衛する任務についた。信濃は大和型戦艦3番艦を空母に設計変更した七万トン級の大型空母だった。 詳細は「信濃 (空母)」を参照 第17駆逐隊の雪風、浜風、磯風はレイテ沖海戦以来の連戦で、休養もなく兵が疲労困憊している上に、艦の水中探査機も損傷したままだった。雪風の寺内艦長ら、第17駆逐隊の艦長たちは、米潜水艦の待ち伏せがある夜間の航行は避け、昼間に沿岸航行するよう信濃艦長阿部俊雄大佐に主張したが、昼間の敵機動部隊の空襲を警戒した阿部艦長に退けられ、夜の間に潜水艦の多い遠州灘南方を南寄りに航行する、薄暮出撃・外洋コースを取る事となった。当時信濃主計長であった鳴戸少佐の回想によると、信濃の航路を決定する会議の中、夜間・外洋航海ルートを取る策に対して信濃航海長兼任の中村副長、護衛の駆逐艦長たちは口々に異を唱え、特に雪風の寺内艦長が最も強硬に反対したとある。11月28日、各艦は横須賀を出港。午後6時半に外洋に出ると、午後9時、信濃のレーダーが後方から追尾する船を感知した。雪風は信濃のレーダーが探知した不審な目標の捜索に向かったが、「味方識別に応ぜざるも、乾舷高く、漁船と思われる」と報告した。豊田穣はこの漁船と思われた船影が信濃を浮上追跡中の米潜水艦アーチャーフィッシュ(USS Archerfish, SS-311)であった可能性が高いとし、その根拠として戦後アーチャーフィッシュのジョセフ・F・エンライト少佐/艦長に詳しく取材したと述べた。しかしアーチャーフィッシュのエンライト艦長の証言では、この時間帯におけるアーチャーフィッシュは信濃の後方ではなく前方を占位し、同一進路を前進していたとあり、豊田の推測を否定するものとなっている。第17駆逐隊(浜風、雪風、磯風)と信濃は視認とレーダーでアーチャーフィッシュを発見、雪風も午後10時45分に浜風と共に潜水艦に向けて砲撃態勢をとったが、信濃艦長の阿部大佐は所在の暴露を恐れて発砲を認めていない。日付が代わり11月29日の午前2時、雪風の田口航海長は当直を交替した際、「右前方に浮上した潜水艦を発見。駆逐艦一隻を派遣して制圧させ、残りの船団は速力を上げて突破するのが良いと思うのだが、我らは一団となって回避中である。」との申し継ぎを受けた。このやり取りの際も阿部大佐はアーチャーフィッシュが浮上追跡していると思わず雪風を定位置に戻している。午前3時過ぎ、信濃はアーチャーフィッシュから4本の魚雷攻撃を受け午前11時頃に沈没した。 12月下旬、台湾方面への輸送船団「ヒ87船団」及び空母龍鳳の護衛に雪風、浜風、磯風、時雨が指定され、出撃準備を行った。だが雪風は機関の故障により船団護衛に従事できず、呉に帰港した。この輸送船団護衛中に時雨が米潜水艦の雷撃で沈没している。1945年(昭和20年)1月以降、第17駆逐隊は大津島周辺で特攻兵器回天及び震洋の訓練に協力し、標的艦を務めた。3月19日の呉軍港空襲の際には多くの艦船が被害を受ける中、川原石の海岸近くでブイに繋留されたまま対空砲火でアメリカ軍機を2機(3機とも)撃墜した。3月29日、戦艦大和と軽巡洋艦矢矧以下第二水雷戦隊各艦は周防灘に移動したが第7駆逐隊所属の響が触雷し脱落した。
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レイテ沖海戦後
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レイテ沖海戦の後、日本海軍の残存艦艇は損傷状況や任務により各地に分散配置された。榛名は暫く東南アジア方面に残置されることになった。11月16日、戦艦大和、長門、金剛は軽巡洋艦矢矧及び第十七駆逐隊(浦風、磯風、雪風、浜風)及び梅、桐に護衛されてブルネイを出港し日本本土へ向かった。榛名と足柄、羽黒、大淀等はブルネイに残り、リンガ泊地へ移動することになった。しかし21日、金剛と浦風が米潜水艦シーライオンII(USS Sealion, SS/SSP/ASSP/APSS/LPSS-315)の雷撃で撃沈された。これにより開戦時4隻だった金剛型戦艦は、榛名1隻を残すのみとなった。22日リンガ泊地着時の第二遊撃部隊戦力は、榛名以下足柄(第五艦隊旗艦)、第四航空戦隊(日向、伊勢)、第五戦隊(羽黒)、大淀、第二水雷戦隊[霞/旗艦、潮、朝霜、第二一駆逐隊(初霜)、第四一駆逐隊(霜月)、岸波、清霜/昭南にて修理中)]であった。 このブルネイからリンガ泊地への移動中、榛名は座礁して艦底に大きな損傷を受けた。天候が平穏ならば18ノット発揮可能、荒天時の外洋航海は不安と判定される程の被害であった。現地修理は不可能と判断した第五艦隊及び同艦隊司令長官志摩清英中将は、榛名の内地回航を決定する。護衛艦には霞と初霜が指定され、第二水雷戦隊司令官木村昌福少将は一時的に将旗を霞から潮に移揚した。 なお25日11時にはシンガポールからリンガ泊地に向かっていた戦艦伊勢も座礁しているが、速やかに離礁に成功、被害も少なく浸水被害もなかった。 11月28日夕刻、榛名、霞、初霜はリンガ泊地を出発、29日午前10時に昭南(シンガポール)着。空母隼鷹隊との合流を目指し、その日の内に台湾の馬公市へ向かう。12月5日、榛名はマニラ輸送任務を終えて日本本土へ向かう空母隼鷹、秋月型駆逐艦冬月、涼月、松型駆逐艦槇と台湾の馬公市で合流(海上で合流したとも)。6日、初霜、霞と分離すると、榛名は隼鷹と共に日本本土に向けて出港した。ところが12月9日、男女群島と五島列島の間にて隼鷹がレッドフィッシュ (USS Redfish, SS-395) の、槇がシーデビル (USS Seadevil, SS-400) もしくはプライス (USS Plaice, SS-390)の雷撃によりそれぞれ損傷した。襲撃直前、アメリカ軍潜水艦の待ち伏せが予想される男女群島を黎明前に通過するのは危険と判断した涼月は、高速を発揮する榛名に『速力を落とされてはいかが』と信号したが、榛名からの返答は無かったという。12日11時35分、榛名、凉月、冬月は呉に帰還した。その後、修理作業に従事する。12月20日、高雄警備府参謀副長へ転任した重永艦長(10月15日少将昇進)に代わり、軽巡矢矧の前艦長をつとめた吉村真武(よしむら・またけ)大佐が着任するが、吉村艦長指揮のもと出撃する機会は二度となかった。
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