レイテ沖海戦までとは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > レイテ沖海戦までの意味・解説 

レイテ沖海戦まで

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 22:10 UTC 版)

大和 (戦艦)」の記事における「レイテ沖海戦まで」の解説

1944年昭和19年1月10日、3隻(大和満潮藤波)はトラック泊地出発する15日瀬戸内海到着した被雷により明らかになった欠陥に対して浸水範囲せばめるための水密隔壁追加されたが、装甲継手装甲支持鋼材継手とが一致してしまっているという根本的欠陥補強する方法もなく(支持鋼材継手角度をつけることでクサビ効果があると設計では考えられていたが、そのとおりには機能しなかった)、元のとおりに修理されただけであった。この工事並行して、両舷副砲撤去し高角砲6基と機銃増設し対空兵装強化図った[要出典]。なお、スケートによる雷撃2ヶ月後トラック基地偵察飛行撮影されネガフィルム上に見慣れぬ巨大な艦影発見したアメリカ軍は、捕虜尋問によってそれが戦艦大和武蔵という新型戦艦主砲について45cm(17.7インチ)であると資料纏めている。 4月22日大和重巡洋艦摩耶駆逐艦4隻(島風早霜雪風山雲)に護衛され瀬戸内海出撃した。山雲豊後水道通過後に護衛をやめて平郡島戻った早霜途中で護衛切り上げて横須賀向かった大和隊は4月26日マニラ着、29日同地出発する5月1日リンガ泊地到着した 5月4日第一戦隊司令官宇垣纏中将長門から大和移乗し大和第一戦隊旗となった6月14日ビアク島上陸したアメリカ軍迎撃するため渾作戦参加するが、アメリカ軍サイパン島上陸したことにより渾作戦中止となった渾作戦部隊第一戦隊〈大和、武蔵〉、第五戦隊妙高羽黒〉、第二水雷戦隊能代沖波島風〉、第10駆逐隊朝雲〉、第4駆逐隊山雲野分〉)は北上し小沢機動部隊合流した6月15日マリアナ沖海戦参加大和栗田健男中将指揮する前衛艦隊所属していた。6月19日前衛艦隊上空通過しようとしていた日本第一次攻撃隊を米軍機誤認周囲艦艇とともに射撃して数機を撃墜するという失態犯している。大和発砲していないという証言もある。同日日本軍機動部隊アメリカ潜水艦雷撃により空母2隻(大鳳翔鶴)を失った6月20日アメリカ軍攻撃隊に向けて三式弾27発を放った大和実戦主砲発射したのはこれが最初である。6月24日日本に戻る。10日ほど在泊したのち、陸軍将兵物資搭載して第四戦隊第七戦隊第二水雷戦隊と共にシンガポールへ向かう[要出典]。7月16日第一戦隊(大和、武蔵長門)、駆逐艦3隻(時雨五月雨島風)はリンガ泊地到着した[要出典]。この後3ヶ月訓練行い10月には甲板黒く塗装した

※この「レイテ沖海戦まで」の解説は、「大和 (戦艦)」の解説の一部です。
「レイテ沖海戦まで」を含む「大和 (戦艦)」の記事については、「大和 (戦艦)」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「レイテ沖海戦まで」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「レイテ沖海戦まで」の関連用語

レイテ沖海戦までのお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



レイテ沖海戦までのページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの大和 (戦艦) (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS