レイテ沖海戦まで
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1944年(昭和19年)1月10日、3隻(大和、満潮、藤波)はトラック泊地を出発する。15日に瀬戸内海へ到着した。被雷により明らかになった欠陥に対して、浸水範囲をせばめるための水密隔壁が追加されたが、装甲の継手と装甲の支持鋼材の継手とが一致してしまっているという根本的欠陥は補強する方法もなく(支持鋼材の継手に角度をつけることでクサビ効果があると設計では考えられていたが、そのとおりには機能しなかった)、元のとおりに修理されただけであった。この工事と並行して、両舷副砲を撤去し、高角砲6基と機銃を増設して対空兵装の強化を図った[要出典]。なお、スケートによる雷撃の2ヶ月後、トラック基地の偵察飛行で撮影されたネガフィルム上に見慣れぬ巨大な艦影を発見したアメリカ軍は、捕虜の尋問によってそれが戦艦大和・武蔵という新型戦艦で主砲についても45cm(17.7インチ)であると資料を纏めている。 4月22日、大和と重巡洋艦摩耶は駆逐艦4隻(島風、早霜、雪風、山雲)に護衛され瀬戸内海を出撃した。山雲は豊後水道通過後に護衛をやめて平郡島に戻った。早霜も途中で護衛を切り上げて横須賀に向かった。大和隊は4月26日マニラ着、29日に同地を出発する。5月1日、リンガ泊地に到着した 5月4日、第一戦隊司令官宇垣纏中将は長門から大和に移乗し、大和は第一戦隊旗艦となった。6月14日、ビアク島に上陸したアメリカ軍を迎撃するため渾作戦に参加するが、アメリカ軍がサイパン島に上陸したことにより渾作戦は中止となった。渾作戦部隊(第一戦隊〈大和、武蔵〉、第五戦隊〈妙高、羽黒〉、第二水雷戦隊〈能代、沖波、島風〉、第10駆逐隊〈朝雲〉、第4駆逐隊〈山雲、野分〉)は北上し、小沢機動部隊と合流した。6月15日、マリアナ沖海戦に参加。大和は栗田健男中将指揮する前衛艦隊に所属していた。6月19日、前衛艦隊上空を通過しようとしていた日本側第一次攻撃隊を米軍機と誤認、周囲艦艇とともに射撃して数機を撃墜するという失態も犯している。大和は発砲していないという証言もある。同日、日本軍機動部隊はアメリカ潜水艦の雷撃により空母2隻(大鳳、翔鶴)を失った。6月20日、アメリカ軍の攻撃隊に向けて三式弾27発を放った。大和が実戦で主砲を発射したのはこれが最初である。6月24日に日本に戻る。10日ほど在泊したのち、陸軍将兵や物資を搭載して第四戦隊・第七戦隊・第二水雷戦隊と共にシンガポールへ向かう[要出典]。7月16日、第一戦隊(大和、武蔵、長門)、駆逐艦3隻(時雨、五月雨、島風)はリンガ泊地に到着した[要出典]。この後3ヶ月間訓練を行い、10月には甲板を黒く塗装した。
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