レイテ航空戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/29 22:57 UTC 版)
「フィリピンの戦い (1944-1945年)」の記事における「レイテ航空戦」の解説
レイテ島に上陸したアメリカ軍はタクロバン飛行場を確保すると、連合軍極東空軍(Far East Air Force, FEAF)司令官ジョージ・ケニー(英語版)少将も同飛行場から陣頭指揮をとることとし、第5空軍の戦闘機を進出させて、強力な航空支援体制を確立しようとしていた。しかし、タクロバン飛行場は地盤が軟弱で整備に手間取っており、第4航空軍司令官の富永恭次中将はアメリカ軍の状況を正確に把握すると、積極的な航空作戦を展開した。まずは、整備に手間取る飛行場に昼夜問わず、集中的な空襲を命じ、新鋭戦闘機四式戦闘機「疾風」にタ弾を搭載させて出撃させたときには、地上で100機以上の撃破を報じたり、反撃のために出撃準備をしていたアメリカ軍の機先を制して、一式戦闘機「隼」、「九九式双軽爆撃機」、「九九式襲撃機」がタクロバン飛行場を夜襲し、アメリカ軍機41機以上を撃破し、航空要員100名以上を戦死させるなど大きな戦果を挙げている。また富永は、上空支援が十分ではないアメリカ軍の上陸拠点への空襲も命じ、11月の第1週には、揚陸したばかりの2,000トンのガソリンや1,700トンの弾薬を爆砕し、上陸したアメリカ軍の補給線を脅かすなど、アメリカ軍の弱みを巧みについた攻撃を命じた。 アメリカ軍も警戒を強化したが、第4航空軍の攻撃機は警戒するアメリカ軍を嘲笑うかのように、山稜ごしに熟練した操縦技術で低空で侵入し連合軍のレーダーを妨害して空襲を繰り返した。ケニーはタクロバンにリチャード・ボング少佐や、トーマス・マクガイア少佐など34名のエースパイロットを呼び寄せたが、わずか24時間の間にその半数が日本軍機に撃墜されて戦死している。ケニーが陣頭指揮にあたっても、飛行場整備は捗らず、雨が降ると滑走路がぬかるみ満足な出撃は困難で、天気が回復しても優勢な第4航空軍の戦闘機隊と互角に渡り合うのがやっとであり、レイテ島に上陸したウォルター・クルーガー中将率いる第6軍に十分な航空支援ができず、進軍速度は計画を大きく下回ることとなってマッカーサーを苛立たせた。 マッカーサーが居住していた司令部兼軍司令官官舎も、第4航空軍の攻撃目標となっており、爆弾が着弾したり、機銃掃射を受けたりし、マッカーサーは何度も命の危険に曝されたが、爆弾が不発であったり、機銃弾がマッカーサーの頭をかすめながらも命中しなかったなど、どうにか難を逃れている。ときには、低空飛行する日本軍機に向けて発射した、アメリカ軍の76 mm高射砲の砲弾1発が、外壁をぶち抜いてマッカーサーの寝室に飛び込んでソファの上に転がったこともあったが、それも不発で九死に一生を得たこともあった。富永は、攻撃していた司令部兼軍司令官官舎にマッカーサーが居住しているという情報までは知らなかったが、図らずもマッカーサーら連合軍司令部を一挙に爆砕する好機に恵まれながら、結局その好機を活かすことはできなかった。 レイテ沖海戦で日本艦隊に壊滅的な打撃を与えながらも、第4航空軍の空からの猛攻に苦戦を続ける状況を憂慮したトーマス・C・キンケイド中将は、「敵航空兵力は驚くほど早く立ち直っており、上陸拠点に対する航空攻撃は事実上歯止めがきかず、陸軍の命運を握る補給線を締め上げる危険がある。アメリカ陸軍航空隊の強力な影響力を確立するのが遅れれば、レイテ作戦全体が危機に瀕する」と考えて、この後に予定されていたルソン島上陸作戦については、「戦史上めったに類を見ない大惨事を招きかねません」と作戦の中止をマッカーサーに求めたが、マッカーサーがその進言を聞き入れることはなかった。 なおも第4航空軍の猛攻は続き、攻撃機は昼夜間断なくタクロバン飛行場や揚陸基地などを襲い、滑走路にびっしりと並べられたアメリカ軍航空機を大量に撃破し、弾薬集積所と燃料タンクを爆砕した。その様子を見ていたマッカーサーは「連合軍の拠点がこれほど激しく、継続的に、効果的な日本軍の空襲にさらされたことはかつてなかった」と第4航空軍の作戦を評価し、マッカーサーの副官の1人であるチャールズ・ウィロビー准将も、タクロバン飛行場に日本軍機の執拗な攻撃が続き、1度の攻撃で「P-38」が27機も地上で撃破され、マッカーサーの司令部を何度となく攻撃を受けたと回想しており、第4航空軍による航空攻撃を、構想において素晴らしく、規模において雄大なものであったとし、マッカーサーの軍が最大の危機に瀕したと評価している。アメリカ陸軍の公刊戦史においても、「タクロバンは撃破されて炎上するアメリカ軍機によって赤々と輝いていた」「(第4航空軍の航空作戦は)太平洋における連合軍の反攻開始以来、こんなに多く、しかも長期間に渡り、夜間攻撃ばかりでなく昼間空襲にアメリカ軍がさらされたのはこの時が初めてであった。」と総括している。 レイテ島の戦況とこれまでの第4航空軍の戦いぶりは昭和天皇にも上奏され、昭和天皇からは「第4航空軍がよく奮闘しているが、レイテ島の地上の敵を撃滅しなければ勝ったとはいえない。今一息だから十分第一線を激励せよ」第4航空軍に対するお褒めのことばがあっている。 しかし、富永の積極的な航空作戦によって、第4航空軍は戦果も大きい代わりに航空機の損失も大きかった。富永は毎日の航空機の損失と、日本内地からの補充を自ら確認して、南方軍総参謀長飯村穣中将に報告していたが、補充される機数は多い日で十数機程度と少数で、補充がない日もあった。富永はせめて毎日30機の補充があれば、多号作戦の船団護衛と攻撃任務を両立できるうえ、連合軍をレイテから叩きだせると考えて、飯村に補充機の増加を要請した。飯村は陸軍中央に「ともかく生産力をあげて南方に補給されたし」と電報を打つとともに、南方軍後方参謀村田謹吾中佐を日本内地に帰らせて、参謀本部作戦課長服部卓四郎大佐に飛行機の補充増を要請させたが、服部から却下されている。それでも富永は政治力も駆使して、多少の補充機の上積みに成功したが、その程度の数では消耗には追い付けず、次第に第4航空軍は飛行場攻撃に兵力を回せなくなってしまった。 執拗な第4航空軍の飛行場攻撃が弱体化したことと、比較的地盤が堅固であったタナウアンで飛行場を整備できたこともあり、順調に戦力が増強されるアメリカ陸軍第5空軍や、アメリカ海軍機動部隊の艦載機によって、制空権はアメリカ軍に奪われることとなった。それでも9回にもわたった海上輸送作戦で、日本軍は45,000名の兵員と物資10,000トンを揚陸することに成功して、レイテ島に上陸したアメリカ軍は想定していた以上の兵力の日本軍と戦うことになり、苦戦を強いられた挙句に、ルソン島への上陸計画を延期して予備兵力をレイテに投入せざるを得なくなっている。アメリカ第6軍は、第4航空軍による飛行場攻撃と、飛行場整備の失敗によって、航空支援が十分受けられなかったために、慎重な作戦をとりざるを得ず、レイテ島の攻略に手間取ることとなった。 制空権を喪失した日本軍であったが、作戦機によりレイテ島オルモック付近に展開する地上部隊に対する補給物資の空輸を行っている。地上軍との連携を重視していた富永は、この任務に歴戦の精鋭であった第2飛行師団飛行第75戦隊をあて、戦隊長の土井勤少佐に対しては、富永は自ら詳細な作戦図を示して物資の投下点などの指示を行い、戦隊の搭乗員への贈り物として清酒1ダースを贈っている。空中から地上部隊に補給した物資は、乾パンや乾燥野菜といった食料、医療品、無線機材などであったが、少数の作戦機による空輸では戦局を好転させることはできなかった。
※この「レイテ航空戦」の解説は、「フィリピンの戦い (1944-1945年)」の解説の一部です。
「レイテ航空戦」を含む「フィリピンの戦い (1944-1945年)」の記事については、「フィリピンの戦い (1944-1945年)」の概要を参照ください。
- レイテ航空戦のページへのリンク