アメリカ軍の状況
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アメリカ軍は1944年(昭和19年)夏、日本の統治下にあったマリアナ諸島のグアム島、テニアン島、サイパン島を相次いで攻略、各島にB-29専用の大きな飛行場を建設すると、これらの飛行場を拠点に同年11月から日本本土空襲を本格化させた。マリアナ諸島を拠点としたアメリカ陸軍第20航空軍所属のB-29は航続距離の面で問題があり、北緯39度以北の都市に関しては、硫黄島を前進基地としない限り効果的な攻撃は望めないとしていた。これに対してアメリカ海軍の高速空母を中心とした機動部隊は日本本土近海まで到達することが可能となったが、各空母から発艦した艦載機による銃爆撃は広範囲に及び、B-29や同機の護衛として展開されたP-51 マスタングの欠落面を補った。当初、艦載機による攻撃は硫黄島の戦いや沖縄戦など日本本土を対象とした攻略作戦の支援という形で実施されていたが、やがて海軍独自の作戦として実施されるに至った。 陸軍および海軍は偵察用に改良したB-29による日本本土の偵察写真や爆撃の成果、捕虜から得られた様々な情報を共有し、次期作戦に向けた検討分析を行っていた。横須賀に関しても戦略目標のひとつと見做し、航空参謀本部情報部がまとめた地域別攻撃目標分析の中で、横須賀海軍工廠(攻撃目標90:17-274番)、長浦港の横須賀海軍工廠造兵部(攻撃目標90:17-282番)と吾妻島の燃料貯蔵施設(攻撃目標90:17-297番)、追浜海軍飛行場(攻撃目標90:17-298番)、海軍航空技術廠(攻撃目標90:17-1392番)、横須賀港湾地域(攻撃目標90:17-3400番)を攻撃目標に挙げ、周辺地域では横須賀の北西に位置する日本製鋼所横浜製作所(攻撃目標90:17-2042番)、三崎港湾地域(攻撃目標90:17-3399番)、浦賀港湾地域(攻撃目標90:17-3413番)を攻撃目標に挙げた。このうち横須賀海軍工廠について「最も重要な国内の4大海軍工廠のひとつ。あらゆる種類の艦艇を取り扱うことが可能である。6つの乾ドック、4つの建築物、臨海の引込線を有する」、海軍航空技術廠について「最も重要な海軍機実験の中心地。新型の航空機やエンジン生産を行う」と記した。 1945年(昭和20年)7月21日、陸軍第20航空軍司令部のウィリアム・ブランチャード大佐は、「中小工業都市地域に対する攻撃」と題した報告書を提出した際、都市空襲の対象となる180都市の21番目に横須賀を記したが、陸軍自体は横須賀に対する攻撃の大半を海軍航空隊に一任していたため、攻撃目標としての優先順位は低かったという。こうした見解は戦後、米国戦略爆撃調査団によりまとめられた調査報告書にも記されている。一方、海軍の最大の関心は、専門家のロジャー・ディングマンによれば海上に展開される日本海軍の艦船の破壊にあり、軍事施設の破壊や都市空襲に対する関心は低かった。また、陸海軍は共に軍港周辺に集中配備された防空砲台の状況を把握していたが、「中小工業都市地域に対する攻撃」の1番目に記された東京市に比べて重要度の低い横須賀に対して、危険を冒してまで攻撃する理由はないと判断していた。
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アメリカ軍の状況
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「ニュルンベルクの戦い」の記事における「アメリカ軍の状況」の解説
ジョン・W・オダニエル(en)指揮下の第3歩兵師団はジークフリート線を突破し、ライン川を越えバンベルク(4月13日占領)とエアランゲン(4月16日占領)を占領していた。その北と東に平行してロバート・T・フレデリック将軍率いる第45歩兵師団がヴォルムスとアシャッフェンブルクを経由して前進していた。両部隊は、ニュルンベルク、アウグスブルク、ミュンヘンの制圧を担い、ウェイド・H・ヘイスリップ(en)中将指揮下のXV軍団に属し、第7軍の指揮下にあった。さらに支援部隊には、第12機甲師団、東部の第14機甲師団、南部の第106機甲騎兵団が存在していた。ニュルンベルクでの戦闘指揮は第3歩兵師団のオダニエルが執った。 全体の戦力は約100,000人で、約 30,000人の兵士が戦闘に参加しており (特に第3・第45歩兵師団) 、これらの部隊には戦車、砲兵、重砲が装備されていた。ニュルンベルクの周辺に展開していた他の部隊はもはや必要なかったが、かつてのアルデンヌ攻勢によるドイツ軍の奇襲を避けるため、予備部隊として戦闘部隊に随伴していた。これらの部隊が前進を続けたもう 1 つの理由は、ドイツ側に秘策があるかもしれない、という司令部の懸念であった。アルプスに存在するという、いわゆるアルプス国家要塞がその一つとして問題とされていたが、実際には要塞は存在しなかった。 ニュルンベルクの南西部は閉鎖されていなかったため、ドイツ軍の部隊はローテンブルガー通り(de)を経由して撤退していた。ドイツ軍は劣勢にもかかわらず、司令部から無謀な戦闘が要求されたので、脱走兵が相次いだ。
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