アメリカ軍の第一次上陸
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/23 06:51 UTC 版)
「クィーンストン・ハイツの戦い」の記事における「アメリカ軍の第一次上陸」の解説
10月13日、ブロックはシェフや主力部隊とともにジョージ砦にいた。イギリス軍の分遣隊はクィーンストン、チッパワおよびエリー砦にいた。 クィーンストンの村落はナイアガラ川峡谷の出口にあり、川の流れは速く川幅は200ヤード (180 m)あった。村の直ぐ南は300フィート (100 m)迫り上がった地形でありクィーンストン・ハイツと呼ばれた。川の反対側がルイストンであり、やはりその南にルイストン・ハイツがあった。平和なときはクィーンストンとルイストンの間に渡し船が運航された。 クィーンストンにいたイギリス軍分遣隊は、ジェイムズ・デニス大尉指揮する第49歩兵連隊(以前はブロックが指揮していた)擲弾兵中隊、ジョン・ウィリアムズ大尉指揮する軽装歩兵中隊、第2ヨーク民兵隊の側面支援中隊および3ポンド・バッタ砲1門を擁した第41歩兵連隊の分遣隊であった。18ポンド砲1門がハイツに上がる途中の凸角堡に据えられ24ポンド砲とカロネード砲各1門が村落から1マイル (1.6 km)北のブルーマンズポイントの砲座に据えられた。土地の民兵である第5リンカーン連隊からの複数の中隊は従軍していなかったが、伝言が発せられれば直ぐに集合できることになっていた。 アメリカ軍は第6、第13および第23歩兵連隊と、歩兵として従軍する砲兵大隊であった。ニューヨーク民兵隊は5連隊おり、志願兵によるライフル狙撃兵1個大隊もいた。アメリカ軍は急速に数を増したのでルイストンの正規兵の大多数は最近徴兵されたばかりであり、ヴァン・レンセリアは民兵の訓練と規律の方が正規兵より勝っていると思った。アメリカ軍には船が12隻あり、それぞれ30名の兵士を運べた。また2隻の大きな船もあり80名の兵士を運べるうえに、甲板がついていて、野砲や荷車を運ぶこともできた。 船に乗る最後の瞬間まで序列や優先順位で揉めて、最初の渡河部隊の指揮まで分かれてしまった。ヴァン・レンセリア大佐は民兵の分遣隊を、ジョン・クリスティ中佐は正規兵を率いた。 アメリカ軍は10月13日午前3時に渡河を始めた。船を出して10分後、ヴァン・レンセリア大佐の船が対岸の村落に上陸を始めた。哨兵の一人がその姿に気付き、味方への警報のためというよりもアメリカ軍に見つけたことを警告するためにマスケット銃を発砲し、デニスの本部に走った。数分後、デニスの部隊がまだ川岸に居るアメリカ軍に一斉射撃を行った。ヴァン・レンセリア大佐は船からカナダ側の岸に下りた時直ぐに銃弾で撃たれた。ヴァン・レンセリア大佐は部隊をまとめるように務めているときに更に5発も撃たれた。それでも彼は生き残った。ヴァン・レンセリア大佐は出血で弱っていたために戦闘には加われなかったので、第13歩兵連隊のジョン・E・ウール大尉が指揮を代わりクィーンストンにアメリカ軍の足場を得るために戦った。 一方、イギリス軍の大砲はルイストンのアメリカ軍が船を寄せる場所の方向に撃ち始めた。アメリカ軍の大砲はルイストン・ハイツのグレイ砦という防塁に18ポンド砲が2門、船寄せ場の近くに6ポンド砲が2門あったが、クイーンストンの村落に向かって砲撃を開始した。デニスの部隊は村落まで後退したが家の陰から銃撃を続けた。 明るくなってくると、イギリス軍の大砲が精度を増した。アメリカ軍の大きな船2隻を含み3隻の船の乗員が被害を受けた。船の1つにはクリスティ中佐が乗っていた。銃火の下で恐慌が起こった。クリスティの船の水先案内人はクリスティの制止も聞かず船を元の岸に戻し始めた。このことが後に悶着となった。クリスティの次の船を指揮していたローレンス大尉はクリスティが撤退を命じたと言い張り、卑怯だと告発した。 ジョン・フェンウィック中佐に率いられた第二波の攻撃部隊はイギリス軍の大砲で水中に落され、あるいは下流に流されて空洞に上陸を余儀なくされ、イギリス軍が素早く取り囲んだので生き残っていた者は降伏した。
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