アメリカ軍の撤退
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日本軍機動部隊の三次にわたる攻撃により、ホーネットは戦闘力を喪失、エンタープライズも中破した。エンタープライズは自身の所属機にくわえてホーネットの艦上機を収容しており、この時点で95機を積載していた。損傷しているエンタープライズは、空爆に対して極めて脆弱になっていた。第61任務部隊の状況に対し、日本軍には無傷の空母が残っており、キンケイド少将は撤退を決めた。キンケイド提督は、第17任務部隊のマレー少将にホーネットの曳航作業継続を命じると、第16任務部隊は南東へ退避をはじめた。ノーザンプトンはより太い曳航索を用いてホーネットの曳航を再開した。 一方日本軍は航空機に多大な損害を受けていたが、残存機をすべて投入して米艦隊の追撃を開始した。第一次攻撃隊発進後の空母隼鷹はただちに第二次攻撃隊発進準備につとめたが、戦艦榛名より『敵大型陸上機十数機発見』の報告があり、攻撃隊発進を中止して上空警戒機(零戦4、艦攻5空中退避)を発進させる。だが味方機と判明し、ふたたび第二次攻撃隊発進準備に努めた。午前11時13分、隼鷹から第2次攻撃隊(艦攻7機、零戦8機)が発進した。零戦のうち2機は瑞鶴所属機(白根大尉)、1機は瑞鳳所属機だった。この時の隼鷹には白根大尉の零戦だけではなく、被弾した他艦所属機(翔鶴艦攻1、瑞鶴零戦3、瑞鶴艦爆5、瑞鳳零戦1)も収容している。 続いて11時15分に瑞鶴から残存機すべての零戦5、艦爆2機、艦攻6機(爆弾装備)からなる第3次攻撃隊(指揮官田中一郎瑞鶴分隊長)が発進、他に触接の艦攻1機が同行した。艦攻6機のうち5機は瑞鳳の所属機だった。彼らは索敵から帰還後被弾した瑞鳳に降りられず、瑞鶴に着艦していたのである。また翔鶴所属の零戦2、艦爆1も参加している。 隼鷹第2次攻撃隊は13時13分に戦場に到達し硝煙で視界がぼやける中、速力3-4ノット程度でホーネットを曳航中のノーザンプトンを襲った。ノーザンプトンは曳航索を切って魚雷をすべて回避したが、ホーネットには魚雷1本が命中、傾斜が14度に増大する。また電気系統の復旧も不可能となった。そのためメーソン(ホーネット)艦長は総員退艦準備を発令した。隼鷹第2次攻撃隊は敵空母に魚雷3本以上命中、重巡洋艦に魚雷命中を報告し、零戦2機が行方不明・3機が不時着、艦攻2機が撃墜という損害を出し、零戦3機は「瑞鶴」に、艦攻5機は「隼鷹」に帰投した。1機の艦攻は魚雷を発射できず、隼鷹着艦寸前に魚雷を棄てている。 数十分後、瑞鶴第3次攻撃隊がホーネットを爆撃した。まず艦爆2機による爆撃で1発が至近弾となり、それにより傾斜が20度となった。ここに至って艦長は退艦命令を出した。次いで艦攻隊が高度2000m(規定では3000m)から800キロ爆弾による水平爆撃を行う。1発が飛行甲板後端に命中。他の5発は至近距離に落下し、衝撃波によりホーネットに大きな損害を与えた。この時、鈴谷索敵機や利根索敵機が、ホーネットがまだ沈没していないことを報告した。瑞鶴第3次攻撃隊は艦爆1機が隼鷹に不時着した他、全機無事に瑞鶴へ帰投した。 13時35分、隼鷹からこの日最後となる艦爆4機、零戦6機からなる隼鷹第3次攻撃隊が発進していた。攻撃前、奥宮航空参謀が加藤舜孝中尉(隼鷹艦爆隊先任将校)に出撃を命じると、加藤中尉は「またいくんですか」と仰天して立ち上がったという。15時10分、隼鷹第3次攻撃隊は漂流中のホーネットを発見、20分ほどエンタープライズを捜索したが発見できず、ホーネットを目標として爆撃を開始した。爆弾1発が命中。ホーネットは炎上しつつ右舷に傾斜した。隼鷹第3次攻撃隊は爆弾4発命中を記録し、全機が帰還している。隼鷹は第三次攻撃隊を収容したのち、一旦北上して破損機の修理を実施。23時頃、空母瑞鶴と合同した。翌日使用可能兵力は、隼鷹隊(零戦11、艦爆8、艦攻5)、瑞鶴隊(零戦33、艦爆10、艦攻19)であったという。 支援部隊指揮官(近藤信竹中将、旗艦「愛宕」)が指揮する前進部隊は、アメリカ軍機動部隊に水上戦闘を挑むため追撃戦に移った。機動部隊前衛も近藤長官の指揮下に入ったが動きが鈍く、旗艦「愛宕」からの再三による進撃命令を受けてようやく東進を開始、前進部隊と協同行動をとることになった。 一方のアメリカ軍はホーネットから総員を退艦させると、駆逐艦マスティン(英語版)とアンダーソン(英語版)にホーネットの自沈処分を命令した。2隻は少なくとも魚雷16本を発射し、9本は起爆した。だがホーネットは沈まず、魚雷を使い果たした両艦は12.7cm砲弾300発を撃ち込んだが、ホーネットなおも浮いていた。2隻は日本軍索敵機(長良機)に発見されたため、急いで現場海域から離脱した。日本軍前進部隊は、長良機・五十鈴機・摩耶機などに誘導されながら接近した。日が暮れようとする海原を前進した日本海軍前進部隊は、彼方から遠雷のような砲声を聞いた。これは、先にマスティンとアンダーソンがホーネットに砲弾と魚雷を撃ち込んでいた音だったと考えられた。 18時30分頃、近藤長官は第二水雷戦隊や各艦(妙高、高雄、巻波、陽炎)に米駆逐艦2隻や残存部隊の追跡を命じたが、全速で逃走する駆逐艦の捕捉は難しく、各隊は追跡を諦めてホーネットの傍に戻った。 詳細は「ホーネット (CV-8)#ホーネットの最期」を参照 詳細は「秋雲 (駆逐艦)#ホーネットを撃沈する」を参照 連合艦隊司令部はドーリットル空襲で日本に衝撃を与えたホーネットを捕獲しようと試み、「事情許さば、拿捕曳航されたし」と前進部隊に迫った。だがホーネットは火災と浸水でひどく損傷しており、曳航は不可能だった。「鉄の船があんなによく燃えるものか」という愛宕乗組員の感想が残っている。秋雲は12.7センチ砲24発をホーネットに撃ち込んだが微動だにせず、爆雷での処分も検討されたが、爆雷の射程が短く断念された。結局、魚雷で処分することとなり、秋雲と巻雲からそれぞれ2本ずつ発射され、3本が命中した。ホーネットは秋雲と巻雲が見守る中、10月27日午前1時35分、サンタクルーズ諸島沖に沈んでいった。日本軍は救助したアメリカ軍兵士の尋問結果から、アメリカ軍の戦力や沈んだ空母がホーネットであることを知った。
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アメリカ軍の撤退
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/05 06:38 UTC 版)
戦闘の後、連合軍東部方面司令官のジェフリー・J・シュロッサー米国陸軍少将はパトロール基地の放棄を決断し、基地撤収を支援するための増援を送った。アメリカとアフガン陸軍がワナトから撤退する約束をしてから3日後に、ISAFは声明を出して「ISAFとアフガン治安部隊は今後もワナト近郊の村で通常のパトロールを続ける」と発表した。連合軍はワナトから約4マイル離れた場所に大型パトロール基地を維持し、より大きなペチ川渓谷の防御に専念した。 この地域の郡警察はアメリカによって武装解除され、郡と郡警察の長官は一時的に拘留されて尋問を受けた。郡の長官の報道担当者によると、両人は24時間以内に釈放されたと言う。 戦闘の後のペンタゴンの報道カンファレンスの公演によると、アメリカ統合参謀本部議長のマイク・ミューレン海軍提督は、事件はパキスタンとアフガニスタン国境(特に穴の開いたクナル州やカシミール、ヌーリスターン)で任務を遂行する全ての関係者に対して、2つのことを示唆していると述べた。1つは地域の警察活動をもっと上手くやらなければならないこと。もう1つは連合軍に対する攻撃の発射台になっているパキスタンの連邦直轄部族地域の過激派の安全地帯をもっと上手く撃滅しなければならない事である。AP通信は、攻撃はアフガン民兵の力を示したと報じた。 しかし第173空挺旅団司令官のチャールズ・プレイスラー大佐は2008年7月20日のインタビューで、その結論に対して明確に反論した。プレイスラー大佐曰く、メディア報道は戦闘を説明する際に、小隊防御展開レベルを間違って説明をした。小隊の撤退は持ち場の「放棄」ではない。恒久的な防御インフラを作っていないし、残してきた訳でも無い。手榴弾を投げる位の接近戦だった事は確かだが、どんな形であれ基地は蹂躙されて居ないと述べた。
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