マーリキー政権の誕生
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/04 14:01 UTC 版)
2006年4月に入ると、エジプトやサウジアラビアの要人が相次いで「イラクは内戦である」と発言し、これに対してイラク移行政府が強く反発した。しかし国内はシーア派とスンナ派による抗争が過激化し、連日テロや殺戮が起こっていた。スンナ派が反発したのは移行政府首相がシーア派過激派のサドル(英語版)と親密だったからである。4月22日、シーア派系議員連合「統一イラク同盟(英語版)」(UIA)は、首相にヌーリー・マーリキーを擁立した。スンナ派とクルド人も容認し、連邦議会が再開した。4月26日には早くもアメリカ政府からラムズフェルド国防長官とコンドリーザ・ライス国務長官が相次いでイラク入りし、これを歓迎した。 閣僚についての決定は、各宗派の調整に手間取り、閣僚をそれぞれの宗派の議席に割り当てることで合意するが、国防相と内務相をマーリキーが兼任すると言う暫定的な形となった。5月20日にマーリキーが閣僚名簿を読み上げ、議会が賛成して承認され、正式政府が発足した。フセイン政権崩壊から3年が経過していた。アメリカ軍は、政権発足時に25万4000人のイラク治安部隊を32万5000人に増強し、12月までに95パーセントを達成するとした。しかし、アメリカ軍の撤退については、ラムズフェルド長官は「削減できればいいが、約束はできない」と発言した。 政権発足直後の6月7日、マーリキー首相とアメリカ軍は共同で、イラク国内でテロを誘発してきたとされるザルカーウィー容疑者を、空爆作戦によって殺害したと発表した。成果は発足直後のアピールとして強調され、6月13日にはブッシュ大統領が電撃訪問してマーリキーを祝福したが、ザルカーウィーの配下は1,000名程度とされる一方、イラク全土の武装集団は20,000名以上と推測されており、アルカーイダも直後に後継者を発表したことから、政治的にも戦略的にも効果は薄いと見られる。実際、その後も一般市民を標的とした爆弾テロや、武装勢力による拉致、殺害、銃撃などは相次ぎ、2006年内のイラク国民の死者は3万4000人以上となった。政権発足後も状況に大きな変化はなく、米国政府とマーリキー政権は相互不信に陥りつつあるといわれる。 イラク政府は同国の安定化を模索する国際会議を3月10日にバグダードで開催すると発表した。イランやシリアを含む周辺諸国のほか、米国をはじめとする国連安保理の5常任理事国、アラブ連盟、イスラム諸国会議機構(OIC)が招待された。4月にも開催予定で日本などサミット参加国も加わる。米側は国務省報道官の記者会見などで路肩爆弾による米兵への攻撃問題を取り上げたいと表明した。
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