ホーネットを撃沈する
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/15 03:25 UTC 版)
「秋雲 (駆逐艦)」の記事における「ホーネットを撃沈する」の解説
10月26日の南太平洋海戦では前衛部隊に配される。日米両機動部隊の激闘の末、アメリカ軍の空母ホーネット (USS Hornet, CV-8) は爆弾5発と魚雷3本が命中して大破し、損害は甚大で復旧不能と判断したアメリカ軍はホーネットの曳航を断念した。鹵獲を避けるべくホーネットの処分を試み、駆逐艦「マスティン(英語版)」 (USS Mustin, DD-413) およびアンダーソン(英語版) (USS Anderson, DD-411) に処分をゆだねた。マスティンとアンダーソンは魚雷9本と400発に及ぶ5インチ砲の砲撃を行ったが、ホーネットは沈まなかった。そうこうしている内に、前衛部隊が迫ってきたのでマスティンとアンダーソンは避退していった。 「事情許さば、拿捕曳航されたし」と連合艦隊参謀長であった宇垣纏少将(海兵40期)の命令を受け、巻雲とともにホーネット追跡の命を受けて、前衛部隊から分離した。日が暮れようとする海原を前進すると、彼方から遠雷のような砲声を聞いた。これは、先にマスティンとアンダーソンがホーネットに砲弾と魚雷を撃ち込んでいた音だったと考えられた。やがて、前方の水平線上が赤味を帯びているのが見えた。接近してみると炎上して漂流中の「ホーネット」だった。ホーネットはいたるところから火を噴き、艦首からは曳航されていたことを物語るロープが数本垂れ下がっていた。また、甲板上には戦死した兵員の遺体がいくつか横たわっているのが確認された。駆逐艦長相馬正平少佐は、まず砲撃によりホーネットを撃沈しようと決心し、備砲の照準を吃水線下に合わせて砲撃を開始した。しかし、砲弾は命中するもののホーネットは微動だにしなかったので、24発撃ち込んだところで砲撃は打ち切られた。次に爆雷投下で穴を開けてホーネットを撃沈しようと試みるも、爆雷の投射距離が50メートル程度で炎上中のホーネットに接近する事が危険であったので断念し、魚雷での処分に切り替えられた。ホーネットの右舷側に移っておよそ2,000メートルの間合いを取り、深度5メートルに調整された酸素魚雷を2本発射。「巻雲」も2本を発射し、4本のうち3本が命中した。 右舷への傾斜が強まったホーネットの姿を見た相馬艦長は、この光景を軍令部に報告提出すべく写真撮影するよう命じるが、航海長に「夜ですから写真は無理ではないですか」と意見されたため、スケッチでホーネットの姿を記録する事となった。スケッチは絵の上手な中島斎信号員が行う事となった。中島信号員が「細部が見えない」と申し出ると、秋雲の相馬艦長はスケッチの助けにしてやろうと「探照燈照射用意」と令して、ホーネットに向けて何度もサーチライトを照射した。この行為は自らの存在を敵潜水艦に知らしめることにもつながりかねず、事情を知らない他の秋雲の乗組員は驚き、巻雲からは「如何セシヤ」の発光信号を送った。相馬艦長は周囲の驚きをよそに5回、6回もサーチライトの照射を行い、「大胆というか、無謀というか」 所業の助けを得た中島信号員は、無事にホーネットの最後の姿を描ききることが出来た。中島信号員が描いたスケッチは後世に残された。やがてホーネットは傾斜と火勢が増し、10月26日22時34分 にサンタクルーズ諸島沖に沈んでいった。乗組員の中には、「東京空襲の仇を取ったぞ」と喝采をあげる者もいた。 海戦終了後、10月30日にトラック諸島に帰投したが、その際に推進器を損傷したため「巻雲」に魚雷と弾薬を譲って内地帰投が決まった。駆逐艦部隊(第4駆逐隊《嵐、野分》、第61駆逐隊《秋月》、第10駆逐隊《秋雲》、第17駆逐隊《浦風、谷風、磯風、浜風》)は南太平洋海戦で損傷した空母2隻(翔鶴、瑞鳳)、重巡2隻(熊野、筑摩)を護衛して内地へ帰投、11月6-7日にそれぞれの母港へ到着した。このためか、第三次ソロモン海戦など11月から12月にかけてのガダルカナル島をめぐる戦いには参加しなかった。
※この「ホーネットを撃沈する」の解説は、「秋雲 (駆逐艦)」の解説の一部です。
「ホーネットを撃沈する」を含む「秋雲 (駆逐艦)」の記事については、「秋雲 (駆逐艦)」の概要を参照ください。
- ホーネットを撃沈するのページへのリンク