提督一覧(日本)
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ゲームに搭乗する実在した提督の一覧と概説。名前は作中表記のまま記載。各人物の詳細はリンク先の記事を参照。 黒島亀人 - 開戦時、大佐。連合艦隊首席参謀兼第一艦隊首席参謀。軍令部第二部長に就任すると、海軍特攻を積極的に推進した。終戦時、少将。 古賀峰一 - 開戦時、中将。支那方面艦隊司令長官。翌年大将に昇進、横須賀鎮守府司令長官。山本の死後、後任の連合艦隊司令長官となり、ろ号作戦を発令し攻勢するも失敗、航空兵力を大きく失い守勢に転じた。パラオ-ダバオ間を移動中に消息を絶った(海軍乙事件)。 田中頼三 - 開戦時、少将。第二水雷戦隊司令官として転戦、部下からの信頼は厚かったが、鼠輸送中のルンガ沖夜戦での弱腰が批判され、戦隊司令官を解かれ左遷された。終戦時、中将。 豊田副武 - 開戦時、大将。呉鎮守府司令長官。古賀の後任で連合艦隊司令長官となる。終戦間際、最後の軍令部総長となる。徹底抗戦を訴えた。 南雲忠一 - 開戦時、中将。空母機動部隊を率いた。第一航空艦隊司令長官として真珠湾攻撃、ミッドウェー海戦に従事。第三艦隊司令長官として南太平洋海戦時には、第一航空戦隊がホーネットを撃沈するなど勝利に貢献。戦局が悪化すると中部太平洋方面艦隊司令長官としてサイパン島に着任。サイパンの戦いで戦陣訓の「生きて虜囚の辱を受けず」を将兵に訓示し玉砕・自決した。死後、大将に昇進。 西村祥治 - 開戦時、少将。第四水雷戦隊司令官。栗田の後任として第七戦隊司令官となり最上型重巡洋艦を率いて各地を転戦。中将昇進後、レイテ沖海戦にて山城を旗艦とする第二戦隊を指揮するが壊滅、山城と共に沈んだ。 山口多聞 - 開戦時、少将。第二航空戦隊司令官として真珠湾攻撃に従事。ミッドウェー海戦で旗艦「飛龍」が被弾すると、総員退艦させ艦とともに沈んだ。死後、中将に昇進。 有馬正文 - 開戦時、大佐。横須賀海軍航空隊副長。翌年「翔鶴」艦長として転戦。少将任官後、第26航空戦隊司令官となるが、戦局悪化の打開策として特攻を推進し、自ら一式陸攻に搭乗し特攻に向かい帰らぬ人となった。死後、中将に昇進。 伊藤整一 - 開戦時、中将。軍令部次長兼海軍大学校校長などを歴任。戦局悪化後、第二艦隊司令長官。大和による特攻(天一号作戦)が下令されると、無謀な作戦と訴えながらも出撃、坊ノ岬沖海戦にて大和と共に沈んだ。死後、大将に昇進。 井上成美 - 開戦時、中将。第四艦隊司令長官。各地を転戦後、海軍兵学校校長となり、機関科と兵科の一系化に尽力。海軍次官となり密かに終戦工作を行う。大将に昇進するも終戦を迎え、戦後は英語塾を開くが満足な月謝をとらず、生活に貧窮する中で死去した。 宇垣纏 - 開戦時、少将。連合艦隊参謀長(兼第1艦隊参謀長)として、様々な作戦を計画した。中将昇進、第一戦隊司令官、第五航空艦隊司令長官として沖縄戦を迎え、天一号作戦や航空機による特攻を指揮した。1945年8月15日の玉音放送後に彗星に搭乗し特攻を敢行し、行方不明。陣中日誌『戦藻録』が有名。 及川古志郎 - 開戦時、大将。戦前海軍大臣となるも、開戦直前の内閣総辞職で軍事参議官となる。一時、軍令部総長となるも、再び軍事参議官となり終戦を迎えた。戦後、中国国民党の軍事顧問団「白団」として活動した。 小沢治三郎 - 開戦時、中将。南遣艦隊司令長官として、マレー作戦のコタバル上陸を指揮。第一機動艦隊兼第三艦隊司令長官としてマリアナ沖海戦、レイテ沖海戦を戦うも敗北。現場を離れ軍令部次長兼海軍大学校長を兼任後、大将に推されるも固辞、中将のまま最後の連合艦隊司令長官となった。 大西瀧治郎 - 開戦時、少将。第十一航空艦隊参謀長。真珠湾攻撃の作戦計画では草鹿と共に悲観論を唱えた。フィリピン攻略戦に参加。航空本部出仕となり、中将に昇進。戦局が悪化すると第1航空艦隊司令長官となり、神風特別攻撃隊を創設。軍令部次長就任後も特攻隊を送り出した。玉音放送の翌8月16日、腹を十字に割く割腹自殺を図るも死ねず、最後まで介錯を断り死亡した。 角田覚治 - 開戦時、少将。第四航空戦隊司令官として、各地で空襲を指揮した。南太平洋海戦では南雲艦隊の第二航空戦隊を率いてエンタープライズを撃退、ホーネットを撃沈した。中将に昇進後、基地航空部隊である第一航空艦隊司令長官となり、マリアナ諸島に着任。テニアンの戦いで地上戦となり、兵士らと共に戦い戦死した(行方不明)。 山本五十六 - 開戦時、大将。連合艦隊司令長官。真珠湾攻撃はじめ、数々の戦闘で連合艦隊を指揮した。ブーゲンビル島上空で、乗機が撃墜され戦死(海軍甲事件)。米側の呼称はヴェンジェンス作戦であり、山本を狙った暗殺であった。若いころから海軍武人であり、日露戦争では東郷平八郎元帥率いる連合艦隊に所属、日本海海戦にも従軍した。「人は動かじ」「男の修行」などの名言を残した。 草鹿龍之介(SFC) - 開戦時、少将。第1航空艦隊参謀長。代表的な海軍参謀であり、その後も第三艦隊参謀長、連合艦隊参謀長を歴任し作戦を立案した。玉音放送後、第五航空艦隊司令長官となり、終戦に納得しない若手将兵を抑えた。最終階級は中将。 栗田健男 - 開戦時、少将。第七戦隊司令官。各地を転戦し、中将昇進後第三戦隊司令官、第二艦隊司令長官となる。レイテ沖海戦では第二艦隊を率いるが、栗田は敗戦の原因ともされる「謎の反転」を行い、後世に残る論争の的となった(レイテ沖海戦#一時反転も参照)。この敗戦で日本海軍は武蔵他多数の艦船を失った。海軍兵学校長に転身し敗戦を迎えた。 五藤存知 - 開戦時、少将。第六戦隊司令官。珊瑚海海戦、第1次ソロモン海戦に参戦。サボ島沖海戦で敵艦船を味方と誤認し砲撃を浴びる。乗艦「青葉」の艦橋に砲弾が命中し両足を吹き飛ばされ戦死した。最後まで同士討ちと信じていたと伝えられる。死後、中将に昇進。 木村昌福(SFC) - 開戦時、大佐。鈴谷艦長。少将昇進後、第一水雷戦隊司令官となり、キスカ島撤退作戦を指揮、5千人の日本軍将兵の撤退を成功させた。その後も多号作戦、礼号作戦などを成功させた。終戦時、海軍兵学校教頭、戦後最後の中将に昇進。 PC-9801 提督ではない2名が表記されていたが、SFC版では草鹿龍之介、木村昌福に差し替えられている。 吉川潔 - 駆逐艦艦長、中佐。大潮艦長としてバリ島沖海戦で戦果を上げた後、夕立艦長となる。第三次ソロモン海戦で、米艦隊重巡2、軽巡3、駆逐艦8に対し、夕立は単艦で砲戦を挑みその勇気を賞賛された。夕立は大破し、その後大波艦長となりセントジョージ岬沖海戦に参戦、アーレイ・バーク率いる米駆逐艦隊の攻撃を受け、大波は撃沈され生存者は一人もいなかった。死後、駆逐艦長としては異例の2階級特進で少将に昇進した。 友永丈一 - 飛龍飛行隊長、大尉。ミッドウェー海戦でミッドウェー島空爆に向かい、乗機が被弾するも、飛龍に帰還後すぐに赤城・加賀らの残存機を集め、被弾した乗機を応急修理・片道燃料のうえで全10機で第二派攻撃を行う。ヨークタウンを発見するも米直掩機の攻撃で被弾、海面墜落直前に魚雷を放った姿が敵味方ともに目撃されている。海戦は大敗北するも、ヨークタウンは沈没した。死後、2階級特進で中佐に昇進した。
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提督一覧(連合国)
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ゲームに搭乗する提督の一覧と概説。名前は作中表記のまま記載。各人物の詳細はリンク先の記事を参照。 W.F.ハルゼイ - 開戦時、中将。第16任務部隊司令官。第三次ソロモン海戦を指揮し、比叡・霧島を撃沈するなど勝利に導いた。南太平洋方面軍司令官に就任、大将に昇進後、第3艦隊司令官となる。戦後、海軍元帥に任命された。アーレイ・バーク級ミサイル駆逐艦47番艦ハルゼーの艦名となった。 H.E.キンメル - 開戦時、大将にして太平洋艦隊司令長官。真珠湾攻撃の引責で解任され予備役となった。後任はニミッツ少将が大将に昇格し配属された。 T.キンケイド - 開戦時、少将。応急修理したエンタープライズを指揮し、第三次ソロモン海戦を戦う。中将に昇進後、第7艦隊司令官となり、ニューギニア戦役、レイテ沖海戦で戦った。大将昇進後に終戦。スプルーアンス級駆逐艦の3番艦キンケイドの艦名となった。 M.A.ミッチャー - 開戦時、大佐。ホーネット艦長。ドーリットル空襲を指揮し少将に昇進。中将に昇進後、第58任務部隊司令官として終戦まで戦う。戦後、大将に昇進、大西洋艦隊司令長官を務めた。 C.W.ニミッツ - 開戦時、少将。キンメルが更迭されると太平洋艦隊司令長官を打診され、一度は断るが2階級特進で大将となり長官の任に就く。現場の将校の手腕・分析を信じ太平洋戦争を連合国の勝利に導いた。終戦間際、海軍元帥に昇進。日本本土空襲の際、皇居への攻撃は絶対に行ってはならないと全軍に通達したという。ニミッツ級航空母艦のネームシップとなった。 R.A.スプルアンス - 開戦時、少将。第5巡洋艦戦隊司令官であったが、ハルゼイが病に倒れると第16任務部隊の代理司令官に指名され、ミッドウェー海戦で日本の空母4隻を沈め勝利に導いた。中将昇進後、第5艦隊司令官となり中部太平洋方面で戦う。大将に昇進しニミッツ元帥の後継として太平洋艦隊司令長官も一時勤めた。スプルーアンス級駆逐艦のネームシップとなり、その後もアーレイ・バーク級ミサイル駆逐艦61番艦スプルーアンスの艦名となった。 T.V.フィリップス - 開戦時、大将。英国東洋艦隊司令官。東洋艦隊を率いマレー沖海戦を戦うが、旗艦プリンス・オブ・ウェールズと共に戦死した。 F.J.フレッチャー - 開戦時、少将。ヨークタウンを旗艦とする第17任務部隊を指揮し、珊瑚海海戦、ミッドウェー海戦を戦う。中将に昇進後サラトガ、ワスプ を加えた第61任務部隊を指揮、第二次ソロモン海戦では日本軍に損害を与えるもサラトガは大破、ワスプは沈没しフレッチャーも負傷する。戦後、大将に昇進。スプルーアンス級駆逐艦29番艦フレッチャーの艦名となった。 W.A.リー - 開戦時、少将。戦艦砲術のエキスパート。第三次ソロモン海戦では第64任務部隊を率い、近藤信竹中将率いる第二艦隊と砲戦、夜戦でレーダー索敵を駆使し霧島を撃沈した。中将に昇進後、マリアナ沖海戦、レイテ沖海戦でも戦艦部隊を率いて戦う。日本が降伏した10日後、戦艦アイオワの艦上で心臓発作により死去。 D.S.ギャラガン - 開戦時、大佐。サンフランシスコ艦長。少将昇進と同時に第67.4任務群の指揮官となり、第三次ソロモン海戦に参戦、乗艦していたサンフランシスコの艦橋に霧島の砲撃が命中し戦死した。 F.C.シャーマン - 開戦時、大佐。レキシントン艦長。珊瑚海海戦でレキシントンは沈没する。少将に昇進後、ハルゼー指揮下でサラトガ旗艦第38任務部隊・第58任務部隊の指揮をとり各地を転戦。終戦直前に中将に昇進。第5艦隊司令長官となった。 C.ドールマン - 開戦時、少将。オランダ海軍の提督。4か国連合艦隊である米英蘭豪連合攻撃部隊(ABDA艦隊)を率い、ジャワ沖海戦、バリ島沖海戦を戦う。スラバヤ沖海戦で旗艦デ・ロイテルと共に沈んだ。オランダ海軍のカレル・ドールマン級フリゲートのネームシップとなった。 M.B.ブローニング(マイルズ・ブローニング(英語版)) - 開戦時、大佐。エンタープライズ艦長。ハルゼーの参謀長などを務めた。空母における航空戦術に長けていたが、人間性が不評であり更迭の話も上がった。終戦後の1947年に上級少将に昇進した。 E.J.キング - 開戦時、大将。大西洋艦隊司令長官。開戦後、廃止されていた合衆国艦隊司令長官に任命され、合衆国の全艦隊の指揮権を有したが、従来から海軍制服組トップは海軍作戦部長であり、ツートップとなった部内に混乱が生じた。翌年、合衆国艦隊司令長官兼海軍作戦部長に任命され、終戦まで制服組トップを務めた。戦後、海軍のトップは作戦部長であるべきとし、合衆国艦隊司令長官を廃止し、作戦部長も辞した。 J.J.クラーク - 開戦時、中佐。ヨークタウン副長。1942年ミッドウェー海戦は勝利するもヨークタウンは沈没した。同年大佐に昇進後、護衛空母スワニー艦長、1943年新造艦エセックス級ヨークタウン艦長、1944年少将に昇進し第13空母任務群司令官に昇進する。戦後も朝鮮戦争で第77任務部隊司令官、1952年中将に昇進し第1艦隊・第7艦隊司令官を歴任した。大将に昇進し退任。チェロキー族出身者で、海軍航空隊のパイロット出身の提督である。ペリー級フリゲート5番艦クラークの艦名となった。 W.L.アインワース - 開戦時、大佐。ミシシッピ艦長。第67任務部隊等を率いて太平洋各地で戦った。太平洋艦隊の全ての巡洋艦と駆逐艦の司令官となった。最終階級は中将。 P.ベリンガー W.M.フェチェトラー - 開戦時、中佐。大佐に昇進後、人事局副局長を務めた後、インディアナ艦長。1944年少将に昇進、キンケイドの第7艦隊傘下の第77任務部隊司令官としてビアク島の戦いに従事。戦後、中将・大将に昇進し大西洋艦隊司令長官務めた後、シャーマンの死を受けて海軍作戦部長に任命され、朝鮮戦争下の海軍を率いた。 W.H.ヒル(ハリー・W・ヒル(英語版)) - 開戦時、大佐。海軍作戦部長室で参謀を務め、英国本国艦隊の護送任務でウィチタを指揮した。その後太平洋で戦艦と護衛空母の機動部隊を指揮した。第5水陸両用軍団の司令官としてマリアナ諸島上陸から沖縄戦までを戦った。戦後占領軍第6軍の上陸を指揮。最終階級は大将。スプルーアンス級駆逐艦24番艦ハリー・W・ヒルの艦名となった。 J.E.フーバー
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