空母任務群司令官
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「ジョゼフ・J・クラーク」の記事における「空母任務群司令官」の解説
少将となり3月15日付で第13空母任務群司令官となったクラークは、同期のブローニングが艦長の空母「ホーネット」 (USS Hornet, CV-12) を旗艦としたが、初めは前線司令官の枠が埋まっていて前線への出動がかなわなかった。しかし、任務群の一つを指揮していたサミュエル・P・ギンダー少将がミッチャーに気に入られず更迭され、クラークはギンダーのポジションを継承する形で前線に出動することとなった。司令官としてのクラークの初陣はホーランジアの戦い支援であり、次いでマリアナ・パラオ諸島の戦いに加わる。第58.1任務群を率いたクラークは第58.4任務群を率いるW・K・ハリル少将とともに、サイパンの戦いに先んじて小笠原諸島を爆撃したが、小沢治三郎中将率いる第一機動艦隊のマリアナ諸島への接近により引き返し、6月19日から20日にかけてのマリアナ沖海戦に参加した。海戦後は6月下旬から8月にかけてスカベンジャー作戦を含む再度の小笠原攻撃を行う。一連の小笠原攻撃でクラークが良い評価を得たのとは対照的に煮え切らない戦いを行ったハリルは解任され、海戦後の小笠原攻撃での第58.4任務群司令官はラバウル空襲の経験者であるアルフレッド・E・モントゴメリー少将(アナポリス1912年組)に差し替えられた。また、小笠原諸島に対する頻繁な攻撃は、クラークの下で戦った乗組員やパイロットから「ジョッコー島開発公社」 (Jocko Jima Development Corporation) と命名された。 8月下旬、第5艦隊はハルゼーの第3艦隊と交替してスプルーアンス以下第5艦隊司令部は休養に入ることとなった。ただし、ミッチャーは交代予定者のジョン・S・マケイン・シニア少将(アナポリス1906年組)の技量が十分ではなかったため、マケインに一個任務群を与えて経験を積ませることとなり、ミッチャーは当面ハルゼーの下で第38任務部隊を指揮することとなった。しかし、この決定が不満でマケインも「キーウィ」だったためなのかは定かではないが、クラークは第38任務部隊の指揮下で戦うことは断り、ミッチャーの了承を得て休養に入った。この間にレイテ沖海戦が起こってクラークは大海戦に加わる機会を逸した。下って1945年1月に第38任務部隊がグラティテュード作戦を終えてウルシー環礁に帰投したあと艦隊司令部の交代が行われ、休養のミッチャーが前線に戻ってきたことに応えてクラークも第58任務部隊に復帰。1942年4月18日のドーリットル空襲以来となる日本本土攻撃(ジャンボリー作戦)や硫黄島の戦い、沖縄戦を戦った。1945年5月27日に三度第5艦隊と第3艦隊の交代が行われ、任務部隊がレイテ島サンペドロ湾に帰投したのちクラークは任務部隊を離れてアメリカ本国に戻った。なお、帰投途中にヴァイパー台風に見舞われ、1944年12月のコブラ台風の時のような沈没艦は出なかったものの、クラークの第38.1任務群の艦艇に大きな損害が出た。クラークは、レイテ湾の戦艦「ニューメキシコ」 (USS New Mexico, BB-40) で6月15日に開かれた査問委員会に、ハルゼー、マケインらとともに出頭した。
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