空母任務群司令官とは? わかりやすく解説

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空母任務群司令官

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/03/24 17:25 UTC 版)

ジョゼフ・J・クラーク」の記事における「空母任務群司令官」の解説

少将となり3月15日付で第13空母任務群司令官となったクラークは、同期ブローニング艦長空母ホーネット」 (USS Hornet, CV-12) を旗艦としたが、初め前線司令官埋まっていて前線へ出動がかなわなかった。しかし、任務群の一つ指揮していたサミュエル・P・ギンダー少将がミッチャーに気に入られ更迭されクラークはギンダーのポジション継承する形で前線出動することとなった司令官としてクラーク初陣ホーランジアの戦い支援であり、次いでマリアナ・パラオ諸島の戦いに加わる。第58.1任務群を率いたクラークは第58.4任務群を率いW・Kハリル少将とともにサイパンの戦い先んじて小笠原諸島爆撃したが、小沢治三郎中将率い第一機動艦隊マリアナ諸島への接近により引き返し6月19日から20日にかけてのマリアナ沖海戦参加した海戦後6月下旬から8月にかけてスカベンジャー作戦を含む再度小笠原攻撃を行う。一連の小笠原攻撃クラーク良い評価得たのとは対照的に煮え切らない戦い行ったハリル解任され海戦後小笠原攻撃での第58.4任務司令官ラバウル空襲経験者であるアルフレッド・E・モントゴメリー少将アナポリス1912年組)に差し替えられた。また、小笠原諸島対す頻繁な攻撃は、クラークの下で戦った乗組員パイロットから「ジョッコー島開発公社」 (Jocko Jima Development Corporation) と命名された。 8月下旬第5艦隊ハルゼー第3艦隊交替してスプルーアンス以下第5艦隊司令部休養に入ることとなった。ただし、ミッチャーは交代予定者のジョン・S・マケイン・シニア少将アナポリス1906年組)の技量が十分ではなかったため、マケイン一個任務群を与えて経験積ませることとなり、ミッチャーは当面ハルゼーの下で第38任務部隊指揮することとなった。しかし、この決定が不満でマケインも「キーウィ」だったためなのかは定かではないが、クラーク第38任務部隊指揮下で戦うことは断り、ミッチャーの了承得て休養入ったこの間レイテ沖海戦起こってクラーク大海戦に加わる機会逸した下って1945年1月第38任務部隊グラティテュード作戦終えてウルシー環礁帰投したあと艦隊司令部交代が行われ、休養のミッチャーが前線戻ってきたことに応えてクラーク第58任務部隊復帰1942年4月18日ドーリットル空襲以来となる日本本土攻撃ジャンボリー作戦)や硫黄島の戦い沖縄戦戦った1945年5月27日三度第5艦隊第3艦隊交代が行われ、任務部隊レイテ島サンペドロ湾帰投したのちクラーク任務部隊離れてアメリカ本国戻った。なお、帰投途中ヴァイパー台風見舞われ1944年12月コブラ台風時のような沈没艦は出なかったものの、クラークの第38.1任務群の艦艇大きな損害出たクラークは、レイテ湾戦艦ニューメキシコ」 (USS New Mexico, BB-40) で6月15日開かれた査問委員会に、ハルゼーマケインとともに出頭した

※この「空母任務群司令官」の解説は、「ジョゼフ・J・クラーク」の解説の一部です。
「空母任務群司令官」を含む「ジョゼフ・J・クラーク」の記事については、「ジョゼフ・J・クラーク」の概要を参照ください。

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