空母信濃の建造
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/18 14:58 UTC 版)
「横須賀海軍施設ドック」の記事における「空母信濃の建造」の解説
詳細は「信濃 (空母)」を参照 6号ドックは昭和15年(1940年)5月4日に完成した。そしてドック完成と同時に戦艦信濃の起工式が行われた。6号ドックにはドック建設時に設けられた4基のクレーンの他に、新たに100トンジブクレーンが2基設置され、信濃の建設に用いられることになった。なお6号ドックに設置された6基のクレーンは、6号ドック本体とともに、戦後はアメリカ海軍艦船の補修、修理に活用されることになる。 しかし信濃の工事は横須賀海軍工廠内で進められていた空母の改造工事などに手間を取られ、遅れ気味となっていた。そして昭和16年(1941年)12月8日の第二次世界大戦の参戦後、軍令部は信濃の戦艦としての建設工事を中断し、6号ドックを空けて他の艦船の改修・修理に利用するために、6号ドック出渠が可能となる工事のみを進めるよう命令した。これはタラント空襲、真珠湾攻撃、マレー沖海戦など第二次世界大戦の前半に、戦艦の有用性に疑問が出される戦例が相次いだための方針変更であった。信濃は切断分解して他艦に資材を流用するには工事が進みすぎていたため、止むを得ない措置ではあったが、ドックを空けるためだけの工事を進めることとなった信濃の建造工事は、工事関係者の熱意も低下し、工事ははかばかしく進まなかった。 信濃の運命を大きく変えたのが昭和17年(1942年)のミッドウェー海戦で日本が敗北し、多くの空母を失ったことであった。多くの空母を失った日本海軍は早急に体制の立て直しに迫られ、その中で信濃は戦艦ではなく空母として建造されることが決まった。途中横須賀海軍工廠へ損傷艦の修理が殺到し、約3か月間建造の中断をしなければならない事態は発生したが、空母信濃はこれまでとは異なり急ピッチで建造が進められた。戦況が厳しさを増し物資不足が激しくなる中、文字通り横須賀海軍工廠の余力を全て投入して信濃の建造は進められ、昭和19年(1944年)11月19日、竣工した。 しかし信濃は実際にはまだ工事中状態であり、残りの部分の工事を進めるため、呉海軍工廠へ回送される途中、アメリカ海軍の潜水艦アーチャーフィッシュから魚雷攻撃を受け、昭和19年(1944年)11月29日、沈没した。
※この「空母信濃の建造」の解説は、「横須賀海軍施設ドック」の解説の一部です。
「空母信濃の建造」を含む「横須賀海軍施設ドック」の記事については、「横須賀海軍施設ドック」の概要を参照ください。
- 空母信濃の建造のページへのリンク