6号ドックの建設
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「横須賀海軍施設ドック」の記事における「6号ドックの建設」の解説
第一次世界大戦後も列強の建艦競争は激しさを増し、過重な海軍軍事費は各国の財政を圧迫するようになった。そのような中、大正10年(1921年)にワシントン海軍軍縮条約が締結され、日本の主力艦、航空母艦の保有量はアメリカの6割とされた。続いて昭和5年(1930年)にはロンドン海軍軍縮条約が締結され、主力艦以外の補助艦艇の保有量にも制限が加えられることになった。ワシントン海軍軍縮条約以降の海軍休日によって建艦競争は一段落した。日本海軍は艦艇の保有量に制限が加えられたことにより、既存の艦艇の補修・改良に奔走することとなった。また日本海軍のアメリカ、イギリスの二大海軍大国に対して艦艇の質の高さで対抗しようとした方針により、攻撃型艦艇に重武装をする傾向が強かったが、過重な武装は艦艇の欠陥となって現れ、横須賀海軍工廠のドライドックでは艦艇の補修や改良が相次ぎ、繁忙を極めた。そのような中、大型艦艇の修理に対応するために、4号ドックでは昭和3年(1928年)から昭和4年(1929年)にかけてドック長を40.6メートル延長する改修が行われた。 日本は昭和9年(1934年)12月、ワシントン海軍軍縮条約からの脱退を宣言し、昭和11年(1936年)1月15日にはロンドン海軍軍縮条約の改正を目指した第二次ロンドン海軍軍縮会議からも脱退し、昭和12年(1937年)以降いわゆる無条約時代となり、海軍休日は終焉した。このような情勢下で日本海軍は大幅な軍備増強を計画し、その中で排水量65000トンクラスの大和型戦艦の建造が決定された。大和型戦艦を建造するに当たり、当時世界屈指の大型ドックであった呉海軍工廠の4号ドックでは建造、修理等が可能であったが、他に大和型戦艦の建造、修理が可能なドックがなかったため、大和型戦艦の効率的な建造と完成後のドック入りの便宜を考慮した結果、昭和10年(1935年)7月に横須賀海軍工廠内で6号ドックの建設が開始されることとなった。6号ドックは海軍省建築局長の吉田直が管轄した海軍技術部門のほぼ総力を挙げたチームが、日本国内はもとより日本国外からも参考文献を収集し、設計を進めていった。 6号ドックは船の修理用に建造されたこれまでの1号から5号ドックとは異なり、呉海軍工廠で建造された戦艦大和、長崎造船所で建造された戦艦武蔵に次ぐ大和型戦艦の三番艦が建造される予定となり、まず造船用として建造されることになった。6号ドックは昭和10年(1935年)7月に起工された。まずドック入口付近の海は築堤鋼矢板によって締切られ、そしてドック建設予定地にあった牡蠣ヶ浦の丘陵を削岩爆破によって切り崩し、その後ドック本体部分の掘削に取り掛かった。当時150万立方メートルに及ぶ岩盤の掘削は未経験の大工事であり、スチームショベル、電動ショベルなどの機械を用い、6号ドック建設時に発生した大量の残土は周辺海域の埋め立てに用いられることとなり、スチームロコに牽引されたダンプカーによって運搬された。 ドック本体の掘削が終了後、ドック底面と側面でのコンクリート打ちが行われた。平成17年(2005年)の6号ドック修理時に行われた調査の結果、ドック底面に鉄筋が確認され、6号ドックは鉄筋コンクリート造であると推定された。またドック底面に二列の大理石が埋め込まれていることも確認された。6号ドックは丘陵地を切り崩した後に掘削されたので、地盤は非常に良好であり湧水は少量であり、ドック底部に設けられた排水溝から湧水を排水するようにして、水圧の影響が小さいためにドック底部、側面のコンクリート厚は1メートル以内となっている。ただ、ドック入口部は底部では水深20メートルに近い水圧がかかることを考慮して5メートル以上のコンクリート厚となっている。 また昭和13年(1938年)、ドック建設現場に20トンハンマーヘッドクレーン2基が設置され、続く昭和14年(1939年)には、60トンジブクレーンが設置され、工事が進むにつれて掘削場所が深くなったドック建設現場から出る建設発生土を地表に上げる作業などに使用された。そしてこれら4基のクレーンは6号ドック完成後、引き続き行われた空母信濃の建造に活躍することになった。
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