6台の車列
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/31 17:40 UTC 版)
1914年6月28日の朝、大公フランツ・フェルディナントとその一行は列車に乗り、イリジャ・スパからサラエボまで移動した。ボスニア・ヘルツェゴビナ総督オスカル・ポティオレク(英語版)は、サラエボ駅で一行を出迎えた。駅には6台の自動車が待っていた。手違いにより、先頭車両には特別警備の隊長と共に3人の地元警察官が乗り込んでしまい、隊長に同行するはずだった特別警備隊員らは取り残された。 2台目の車両にはサラエボの市長と警察署長が乗り込んだ。3台目の車両はオープンカーのグラーフ&シュティフト 28/32 PSで、屋根(ほろ)は折りたたまれていた。この3台目の車には、大公夫妻とポティオレク、フランツ・フォン・ハラック伯爵の4人が乗り込んだ。予告されていたプログラムによれば、6台の自動車はまず最初に駐留軍の兵舎を訪れ、簡単な視察を済ませた後、午前10時00分に兵舎を出発し、アペル・キー(Appel Quay)と呼ばれる川沿いの道を通ってサラエボ市庁舎に向かうことになっていた。 大公の訪問時、サラエボ市内の警備体制は限定的だった。当地の軍司令官ミハエル・フォン・アペルは、軍の兵士を一行の予定ルートに沿って配置することを提案していたが、そのような措置は(オーストリアに)忠実な市民の感情を害することになるとして却下された。結果として、一行の警護はサラエボ警察に委ねられており、訪問当日の日曜日には当直の警察官は約60人に過ぎなかった。
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