空母任務群司令官・1943
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「アルフレッド・E・モントゴメリー」の記事における「空母任務群司令官・1943」の解説
1943年半ばに入ってモントゴメリーは太平洋戦線に出動することとなった。新鋭空母「エセックス」(USS Essex, CV-9)に将旗を掲げ、第12空母任務群司令官として高速空母任務部隊司令官チャールズ・A・パウナル少将(アナポリス1910年組)の指揮下で活動を開始。モントゴメリーの第12空母任務群は他の艦艇を加えて第14任務部隊と称され、第14任務部隊は10月5日から10月7日までの間、日本軍の占領下にあったウェーク島を爆撃した。11月に入り、ギルバート諸島攻略のガルヴァニック作戦が差し迫ると、第5艦隊司令長官レイモンド・スプルーアンス中将(アナポリス1907年組)はパウナル直卒の第15任務部隊、モントゴメリーが率いていた第14任務部隊を第50任務部隊として再編成し、第50.1任務群をパウナルが直接率い、第50.2任務群をアーサー・W・ラドフォード少将(アナポリス1916年組)、モントゴメリーに第50.3任務群を、そして「テッド」フレデリック・C・シャーマン少将(アナポリス1910年組)が第50.4任務群を率いる体制に改められた。 その頃、ソロモン諸島の戦いはブーゲンビル島の戦いを目前にしており、南太平洋軍司令長官ウィリアム・ハルゼー大将(アナポリス1904年組)は空母を欲していた。しかし、空母はその多くがガルヴァニック作戦に充てられ、テッド・シャーマンが率いる「サラトガ」と新鋭の「プリンストン」(USS Princeton, CVL-23)のみが当面差し向けられることとなった。テッド・シャーマンの空母群は第38任務部隊を名乗り、11月5日に日本軍の一大拠点ラバウルを爆撃して栗田健男中将率いる強力な日本艦隊に大打撃を与えた(ラバウル空襲)。これを見たハルゼーはダメ押しのラバウル空襲を行うことを決め、太平洋艦隊司令長官チェスター・ニミッツ大将(アナポリス1905年組)に新手の空母任務部隊の派遣を要請した。ニミッツはギルバート諸島方面の戦況をにらみつつ、新手の空母任務部隊を派遣することとし、モントゴメリーの第50.3任務群をラバウルに差し向けることとした。第2回のラバウル空襲は11月11日に行われ、テッド・シャーマンの第38任務部隊はブーゲンビル島北方から、モントゴメリーの第50.3任務群は同島南方から挟み撃ちの格好で艦載機を発進させた。第2回のラバウル空襲は第二水雷戦隊(高間完少将)に打撃を与えて成功した。しかし、第50.3任務群は第三次ブーゲンビル島沖航空戦に遭遇し、反復攻撃を中止してソロモン海域から引き揚げた。第50.3任務群はエスピリトゥサント島を経由して第5艦隊に復帰し、ギルバートの戦場に向かって11月18日から20日にかけてはタラワ攻撃を実施した。モントゴメリーの一連の働きのうち、タラワ攻撃が評価されて海軍殊勲章(英語版)が授与された。 少将の率いる空母任務群は、1943年11月18日から12月10日にわたって中部および南部太平洋海域に所在する日本軍部隊に打撃を与えた。彼はギルバート諸島タラワに対する反復攻撃を指導したが、それは味方部隊が最終的にタラワを占領するという戦略的勝利に大いに関わることとなった。また、5時間にわたる敵の夜襲に臆することなく、クェゼリン環礁を中心とするマーシャル諸島各地に点在する日本の輸送船と航空機、施設に対して絶え間ない空襲を行った。彼は以前にも、ウェーク島、ラバウルおよびニューブリテン島に対する攻撃を実施し、それらは太平洋戦域における味方部隊が迎えるであろう最終的な勝利に大きな貢献となった。 —
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