空母化
空母化
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/26 05:01 UTC 版)
シャルンホルストが日本海軍に譲渡された正確な時期は不明である。1942年(昭和17年)春、ドイツ大使館は日本側にシャルンホルストの譲渡を申し入れた。4月30日、呉鎮守府戦時日誌にシャルンホルストが徴用されていたことを示す記載がある。同年6月5日のミッドウェー海戦で日本海軍は正規空母4隻(赤城、加賀、蒼龍、飛龍)を喪失した。日本側は赤城の代艦として空母グラーフ・ツェッペリンを希望したが、極東への回航は不可能とドイツ側に拒否された。ドイツがグラーフ・ツェッペリンの代替として指定したのが、神戸港に係留されていたシャルンホルストであった。日本政府の駐日ドイツ大使館との交渉によってドイツからシャルンホルストの売却の約束を取り付ける(戦争終結後、ドイツに船価の2倍を支払う約束だった)。福井静夫(海軍技術少佐)は、シャルンホルストの空母改造はドイツ側に実物見本を示すことにあったと回想している。また日本海軍はドイツ本国に残された高速貨客船(グナイゼナウ、ポツダム、ブレーメン、オイローパ)の空母改造を要望し、「日本に回航してくれれば、日本海軍の手で空母に改造する」と提案している。ドイツ側でもこれら商船の空母改造は検討されていたが、グラーフ・ツェッペリンを含め1隻も空母として就役する事はなかった。 6月12日、シャルンホルストは呉軍港に到着した。6月30日、日本海軍は昭和18年度において本艦以下5隻(あるぜんちな丸、シャルンホルスト、千歳、千代田、ぶらじる丸)の空母改造を決定(官房機密第8107号)。7月1日、シャルンホルストの接受および保管の命令が出される。9月(6月30日とも)から呉海軍工廠で空母への改造工事が始まった。仮称「1004号」艦。同時期、呉海軍工廠では冲鷹(新田丸)の空母改造と、戦艦伊勢の航空戦艦改造を行っていた。シャルンホルストにも大和型戦艦4番艦111号艦の資材が流用された。福井静夫(海軍技術将校、神鷹改造担当)は「神鷹の上部構造は、換言すれば第111号艦の化身ともいえる」と回想している。またシャルンホルスト級と新田丸級貨客船は艦型が酷似しているため、改造要領はほぼ同じだった。ただし、詳細な構造図面がドイツ本国にあったことから、呉海軍工廠の現場努力で図面を作成している。艦橋は飛行甲板最前部下部に設けられ、フラットタイプ型の空母となった。これは空母龍驤や瑞鳳型航空母艦(瑞鳳、祥鳳、龍鳳、千歳、千代田)と同様で、日本海軍小型空母の共通構造である。神鷹の排水量は雲龍型航空母艦に匹敵し、船体の大きさから格納庫上下二層設置も充分可能だった。だが、資材を節約し建造期間を縮めるため、大鷹型と同様に格納庫一層となった。神鷹(シャルンホルスト)は新田丸級より若干大型であるため、搭載機数および飛行甲板幅も幾分大きい。陸揚げされた客船時の艤装品は呉海軍工廠関係者の宿泊時に用いられた。 だが、神鷹は試験運転の際から機関系統のトラブルが続出していた。1943年(昭和18年)10月上旬から試験を開始。故障と修理を繰り返し、11月1日に全力公試を実施(2万6000軸馬力、21.97ノット)。12月8日に終末運転公試を行い、12月15日、シャルンホルストの空母への改造が完了。日本海軍は正式にシャルンホルストを神鷹と命名。大鷹型航空母艦に類別した。神鷹の試運転で適確な指導をおこなっていた石井藝二大佐も、神鷹艦長に任命される。石井大佐は、空母鳳翔や赤城副長を経て、春日丸(大鷹)艤装員長、橿原丸(隼鷹)艤装員長、冲鷹艤装員長等を歴任。客船改造空母の艤装員長を次々に担当し、操艦に熟達していた。同日附で神鷹艤装員事務所も撤去された。竣工した神鷹は舞鶴鎮守府所属となり、警備艦に指定される。 12月15日の竣工と同時に、神鷹は呉鎮守府部隊(司令長官野村直邦中将、参謀長大西新蔵少将)に編入される。12月20日附で呉鎮部隊から除かれ、海上護衛総司令部部隊に編入される。12月24日から30日まで因島船渠に入渠、31日に呉に回航された。海軍に引き渡されたものの、審議会は実用に堪えない神鷹の機関換装を決定することとなる。結局、主缶のワグナーボイラーを日本海軍のボイラーに切り替えるという再改修工事をおこなった。広海軍工廠にあった実験用大型艦罐二基を流用することになり、飛行甲板・格納庫甲板等を切り開いて機関部を入れ替えた。この工事に約三ヶ月を要し、1944年(昭和19年)3月に使用可能となった。舞鶴海軍工廠では神鷹の機関部の予備品を準備していたが、無駄になったという。福井静夫は「換言すれば、われわれは盟邦ドイツの技術の優秀さにとうていついて行けなかったともいえる。」と回想している。ただし、ワグナー缶を搭載したドイツ駆逐艦は頻繁に故障を起こしており、このボイラーそのものが欠陥を抱えていた可能性も指摘される。またアメリカ海軍の艦艇で広く採用されていた電気推進(ターボ・エレクトリック式)の機関も、日本海軍では神鷹以外に水上機母艦神威(アメリカに発注・ニューヨーク造船所建造艦)しか実績がなく、機関科は戸惑う事になった。 シャルンホルスト時代は最大発揮速力は約23ノット可能だったが、上述のように日本式ボイラーへの換装、飛行甲板や武装の設置による復元性の悪化から両舷にバルジを設けた結果、重量と水中抵抗の増大により速力も21-22ノットに低下した。合成風力の低下により新型の天山艦上攻撃機、彗星艦上爆撃機の発艦(実戦運用)は不可能となり、旧式の九七式艦上攻撃機、九九式艦上爆撃機を使用する事になった。飛行機搭載数は常用27機・補用機6の合計33機で大鷹型5隻(大鷹、雲鷹、冲鷹、海鷹、神鷹)の中では最も多かった。 神鷹が竣工する約一ヶ月前の1943年(昭和18年)11月15日、日本海軍は海上交通保護および対潜掃蕩を主任務とする海上護衛総司令部を設置した。主要職員は、司令長官及川古志郎海軍大将、参謀長島本久五郎少将、首席参謀後藤光太郎大佐、作戦参謀大井篤中佐等。
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