三段式空母とは? わかりやすく解説

三段式空母

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/05 06:12 UTC 版)

赤城 (空母)」の記事における「三段式空母」の解説

赤城巡洋戦艦として完成していた船体無理矢理空母改造したため、当初から不具合抱えることになった計画では、全長254m(770呎)、幅33m(110呎)、排水量27,000t、速力31.75ノット36搭載という規模だった。建造当初赤城飛行甲板イギリス海軍空母フューリアス第二次改装参考にして三段であったフューリアス二段)。ただし、中段には20cm連装砲2基と艦橋があり、飛行甲板としては使用されなかった。しかも下段甲板もほぼ使われていないという有様だった。着艦大型機の発艦最上段の発着甲板行い中部格納庫赤城格納庫三段式)から伸びた下段飛行甲板小型機発艦使用された。建造中はどの甲板を「上甲板」と解釈するかで議論があった。 また煙突右舷設置され重油専焼缶の第一煙突飛行甲板上の乱流防止するため海面側に向け、発着時には海水噴霧して冷却のうえ排煙し、重油石炭混焼缶の第二煙突上方に向ける方式がとられた。この独特の構造世界空母の中で後にも先にも赤城だけである。完成数年飛行甲板右舷航海用の小型艦設置された。これは、先に近代化改装工事入った加賀改装前使用されいたもの移設したものである。 赤城加賀三段甲板中段に20cm連装砲2基、後部両舷にそれぞれ単装砲を3基ずつ据え合計20cm砲10装備する。これはワシントン海軍軍縮条約規定の上限であり、重巡洋艦同等である。当時はまだ空母という艦種ができたばかり用法定まっておらず、また搭載航空機航続距離短く性能低かったため、空母にも砲戦機会があると考えられたからである。なお、巡洋戦艦として計画されていたときよりも排水量大幅に減り基準排水量で約1万トン減)、喫水浅くなった。 機密保持がさほど厳しくなかった昭和初期までは艦影公開されて、広く一般に愛されている。ただし艦要目は「全長232,56m、幅28,04m、常備排水量28,100t、速力28.5ノット」と控えめ数値公表され搭載機数については秘密であった。また三段空母時代艦影広く知られていたが、飛行甲板一枚統一され近代化改装以降の姿は有名ではなく1940年昭和15年)に発刊され書籍でも加賀改装後写真公表している一方赤城三段甲板時代写真使われていた。セイロン沖海戦前に赤城乗艦した牧島貞一従軍カメラマンは、三段空母時代赤城近代化改装後赤城艦影が違うことに驚いている。 1925年4月進水呉海軍工廠 新造公試における3段甲板赤城艦橋前の20cm連装砲はまだ搭載されていない一段甲板改装前赤城。下の戦艦長門 右舷小型艦設置した改装前赤城

※この「三段式空母」の解説は、「赤城 (空母)」の解説の一部です。
「三段式空母」を含む「赤城 (空母)」の記事については、「赤城 (空母)」の概要を参照ください。


三段式空母

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/05 06:12 UTC 版)

赤城 (空母)」の記事における「三段式空母」の解説

赤城日本海軍計画した八八艦隊計画により、「41cm砲10門、排水量41,000t、速力30ノット」という規模天城型巡洋戦艦建造されることになり、1919年大正8年7月17日附で1番艦と2番艦にそれぞれ天城赤城艦名与えられた。同日附で長良型軽巡洋艦3隻(長良五十鈴名取)も命名されいずれの艦も艦艇類別等級表に登録された。 1920年大正9年12月6日赤城呉海軍工廠起工した完成前1922年大正11年)にワシントン海軍軍縮条約締結されたことから、条約従い主力艦としての廃艦処分回避するため、当時補助艦艇であった航空母艦改造されることになったアメリカ海軍レキシントン級巡洋戦艦天城型巡洋戦艦同様の事情および経緯経て空母改造されレキシントン級航空母艦レキシントンサラトガ就役している。 なお、赤城同型艦でありネームシップ天城同様に航空母艦改造される予定であったが、関東大震災により竜骨破損したため破棄されることになり、代艦として加賀型戦艦1番艦であった戦艦加賀航空母艦改造された。 天城型3番艦・4番艦は高雄および愛宕命名されていたが、この2隻は廃棄された。のちに艦名のみ高雄型重巡洋艦高雄愛宕使われている。 1923年大正12年11月19日戦艦加賀および巡洋戦艦赤城空母化正式に通達された。同日附で航空母艦翔鶴初代)建造中止決まり航空母艦として登録され加賀赤城入れ替わる形で除籍された。1924年大正13年4月14日加賀型戦艦土佐紀伊型戦艦紀伊および尾張、さらに天城型巡洋戦艦天城高雄愛宕建造中止正式に通達された。同日附で土佐紀伊尾張天城高雄愛宕戦艦巡洋戦艦それぞれから削除された。1925年大正14年4月22日航空母艦赤城として進水した赤城1927年昭和2年3月25日竣工した1928年昭和3年6月東郷平八郎元帥岡田啓介海軍大臣等が赤城訪れ航空訓練視察した1929年昭和4年)になると山本五十六大佐(のち連合艦隊司令長官)が赤城艦長着任しており、後年には山本元帥乗艦としても国民紹介されている。他艦よりも汚れ艦内清掃行き届いていない第一航空戦隊旗艦赤城見て戦隊司令官高橋三吉少将叱責したところ、松永寿雄赤城副長は「観艦式ならともかく、猛訓練優先すれば、清掃化粧(艦外観塗装)が疎かになるのは当然」と反論山本艦長も「いざ実戦となったら、軍艦お化粧よりも戦いが先だ。軍艦散髪屋ではないし、ペンキを塗るのがその本でもない」と副長判断是認した。なお山五十六元帥について『飛行甲板から落ちそうになった飛行機見た山本赤城艦橋から飛び出し飛行機尾翼おさえて転落防いだ』という逸話紹介されることがある。これについて奥宮正武は、「発着時の艦長艦橋から離れない」「飛行機転落しそうになった時には飛び出して尾翼押さえてやりたい気持ちだった」という山本心情誤って伝聞されたと指摘している。 1935年11月15日赤城三段甲板から一段全通甲板変更する大改装佐世保海軍工廠開始される

※この「三段式空母」の解説は、「赤城 (空母)」の解説の一部です。
「三段式空母」を含む「赤城 (空母)」の記事については、「赤城 (空母)」の概要を参照ください。


三段式空母

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/12 00:14 UTC 版)

加賀 (空母)」の記事における「三段式空母」の解説

加賀は、ワシントン海軍軍縮条約結果建造中止となった加賀型戦艦改装した大型空母であったワシントン海軍軍縮条約による主力艦制限下、補助的艦種としての航空母艦運用研究され始めたそんな中行われた2隻(加賀赤城)の改造ではあるが、当時日本海軍には空母建造経験小型空母鳳翔しかなく、戦艦巡洋戦艦からの改装日本海軍初だった当初の計画では、全長715呎、最大幅110呎、基準喫水101呎3寸、喫水21呎9寸、排水量26,950頓、20cm砲10門、12cm砲6門、12cm高角砲12門、搭載機36満載状態27.6ノットという規模だった。三層飛行甲板艦尾排煙方式などの多く設備が後に改装撤去され事実が示すように、航空母艦黎明期にあって改装作業模索の中で進められ1928年昭和3年3月31日竣工した艦形決定の際、同じく艦種から改造されイギリス海軍二段航空母艦フューリアス影響受けてか、赤城共々三層飛行甲板を持つ三段式(雛段式)空母案が採用された。上段を離着艦用、中段小型機発艦用、下段大型機の発艦用とし、航空機機種用途合わせ甲板使い分けることが考えられた。 しかし航空機草創期設計されたため、運用実際航空機大型化予測しきれず数々問題浮上することとなった問題となったのは発着飛行甲板短さであり、特に中段甲板顕著に表れここから艦上機発艦することはできなかった。このため中段飛行甲板には艦橋設備作られ艦載機の離艦は出来ないようになった(同じ構造赤城同様の理由で離艦は出来ないようになっている)。その艦橋飛行甲板船体挟まれ構造のため搭載機発艦着艦統制難しく1932年昭和7年)には甲板エレベーター右舷に塔型補助艦と、飛行科指揮所を設けている。 また煙突配置問題となった当時保有していた空母鳳翔1隻しかなく、その運用から舷側煙突立てたままだと航空機着艦操作大きな影響与えることが判明する霞ヶ浦技術研究所模型作ってさまざまな空洞実験行ったがどうしても解決策見出すことができなかった。そこで当時参考資料として検討されたのがイギリス空母アーガスである。これは煙路を両舷に沿って艦尾まで導き排煙するという方式とっていた。当時造船技術者達は赤城方式実用性の上比較するためにこの艦尾排煙方式強く主張し加賀煙突赤城とは別個のものとして作られることになった。『蓋しこの方が艦中央部に据ゑられた大砲その他諸計器為に良好であらう。』と謳っていたが、実際に様々な問題噴出したボイラーからの排煙航空機の邪魔にならないようにと煙路を艦尾まで導いて排煙していたが、長大な煙路の重量艦内容積減少加えて、煙路に隣接する区画室内温度40にも達したといい、高温により居住に耐えられないという大問題を引き起こしたまた、艦尾から排出される煤煙気流乱して航空機着艦阻害することにもなった。この問題赤城同様の煙突方式を取ることで解決試みようとされたが、折から軍縮予算実現されなかった。 なお、この時期加賀航空機搭載機数は60機である。 20cm砲10門を装備。これは近接する水雷部隊からの防御のためであり、艦隊決戦では重巡洋艦並の火力である。そのうち連装砲二基四門竣工後に中段露天甲板配置された。 同様に艦種変更経た赤城が32.5kt を発揮したに対して加賀速力は実速26.7kt(公称27.5kt) 止まりであった巡洋戦艦として設計され赤城対し加賀戦艦として設計されたためである。十二基の重油専燃罐と四基のタービンによる出力は91000馬力であった戦艦は重防御被弾面積縮小のため船体短く設計するが、その反面重量推進抵抗大きくなり、高速力発揮しにくくなる。また飛行甲板短くなるので空母への改造巡洋戦艦天城型の方が適正だったのは否めなかった。

※この「三段式空母」の解説は、「加賀 (空母)」の解説の一部です。
「三段式空母」を含む「加賀 (空母)」の記事については、「加賀 (空母)」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「三段式空母」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「三段式空母」の関連用語

三段式空母のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



三段式空母のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの赤城 (空母) (改訂履歴)、加賀 (空母) (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS