三段式空母
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赤城は巡洋戦艦として完成していた船体を無理矢理空母に改造したため、当初から不具合を抱えることになった。計画では、全長254m(770呎)、幅33m(110呎)、排水量27,000t、速力31.75ノット、36機搭載という規模だった。建造当初の赤城の飛行甲板はイギリス海軍空母フューリアスの第二次改装を参考にして三段式であった(フューリアスは二段)。ただし、中段には20cm連装砲2基と艦橋があり、飛行甲板としては使用されなかった。しかも下段甲板もほぼ使われていないという有様だった。着艦と大型機の発艦は最上段の発着甲板で行い、中部格納庫(赤城は格納庫も三段式)から伸びた下段飛行甲板は小型機の発艦に使用された。建造中はどの甲板を「上甲板」と解釈するかで議論があった。 また煙突は右舷に設置され、重油専焼缶の第一煙突は飛行甲板上の乱流を防止するため海面側に向け、発着艦時には海水を噴霧して冷却のうえ排煙し、重油・石炭混焼缶の第二煙突を上方に向ける方式がとられた。この独特の構造は世界の空母の中で後にも先にも赤城だけである。完成後数年で飛行甲板右舷に航海用の小型艦橋が設置された。これは、先に近代化改装工事に入った加賀で改装前に使用されていたものを移設したものである。 赤城と加賀は三段甲板の中段に20cm連装砲2基、後部両舷にそれぞれ単装砲を3基ずつ据え、合計で20cm砲を10門装備する。これはワシントン海軍軍縮条約の規定の上限であり、重巡洋艦と同等である。当時はまだ空母という艦種ができたばかりで用法が定まっておらず、また搭載航空機の航続距離も短く性能も低かったため、空母にも砲戦の機会があると考えられたからである。なお、巡洋戦艦として計画されていたときよりも排水量が大幅に減り(基準排水量で約1万トン減)、喫水が浅くなった。 機密保持がさほど厳しくなかった昭和初期までは艦影が公開されて、広く一般に愛されている。ただし艦要目は「全長232,56m、幅28,04m、常備排水量28,100t、速力28.5ノット」と控えめな数値で公表され、搭載機数については秘密であった。また三段空母時代の艦影は広く知られていたが、飛行甲板一枚に統一された近代化改装以降の姿は有名ではなく、1940年(昭和15年)に発刊された書籍でも加賀が改装後の写真を公表している一方、赤城は三段甲板時代の写真が使われていた。セイロン沖海戦の前に赤城に乗艦した牧島貞一従軍カメラマンは、三段空母時代の赤城と近代化改装後の赤城の艦影が違うことに驚いている。 1925年4月進水後 呉海軍工廠 新造公試における3段甲板の赤城。艦橋前の20cm連装砲はまだ搭載されていない。 一段甲板に改装前の赤城。下の戦艦は長門 右舷に小型艦橋を設置した改装前の赤城
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三段式空母
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赤城は日本海軍が計画した八八艦隊計画により、「41cm砲10門、排水量41,000t、速力30ノット」という規模の天城型巡洋戦艦が建造されることになり、1919年(大正8年)7月17日附で1番艦と2番艦にそれぞれ天城と赤城の艦名が与えられた。同日附で長良型軽巡洋艦3隻(長良、五十鈴、名取)も命名され、いずれの艦も艦艇類別等級表に登録された。 1920年(大正9年)12月6日、赤城は呉海軍工廠で起工した。完成前の1922年(大正11年)にワシントン海軍軍縮条約が締結されたことから、条約に従い主力艦としての廃艦処分を回避するため、当時は補助艦艇であった航空母艦に改造されることになった。アメリカ海軍のレキシントン級巡洋戦艦も天城型巡洋戦艦と同様の事情および経緯を経て空母へ改造され、レキシントン級航空母艦レキシントンとサラトガが就役している。 なお、赤城の同型艦でありネームシップの天城も同様に航空母艦に改造される予定であったが、関東大震災により竜骨を破損したため破棄されることになり、代艦として加賀型戦艦1番艦であった戦艦加賀が航空母艦に改造された。 天城型3番艦・4番艦は高雄および愛宕と命名されていたが、この2隻は廃棄された。のちに艦名のみ高雄型重巡洋艦高雄と愛宕に使われている。 1923年(大正12年)11月19日、戦艦加賀および巡洋戦艦赤城の空母化が正式に通達された。同日附で航空母艦翔鶴(初代)の建造中止が決まり、航空母艦として登録された加賀、赤城と入れ替わる形で除籍された。1924年(大正13年)4月14日、加賀型戦艦土佐と紀伊型戦艦紀伊および尾張、さらに天城型巡洋戦艦天城、高雄、愛宕の建造中止が正式に通達された。同日附で土佐、紀伊、尾張、天城、高雄、愛宕は戦艦・巡洋戦艦のそれぞれから削除された。1925年(大正14年)4月22日、航空母艦赤城として進水した。 赤城は1927年(昭和2年)3月25日に竣工した。1928年(昭和3年)6月、東郷平八郎元帥と岡田啓介海軍大臣等が赤城を訪れ、航空訓練を視察した。1929年(昭和4年)になると山本五十六大佐(のち連合艦隊司令長官)が赤城艦長に着任しており、後年には山本元帥の乗艦としても国民に紹介されている。他艦よりも汚れ、艦内清掃も行き届いていない第一航空戦隊旗艦赤城を見て同戦隊司令官高橋三吉少将が叱責したところ、松永寿雄赤城副長は「観艦式ならともかく、猛訓練を優先すれば、清掃や化粧(艦外観の塗装)が疎かになるのは当然」と反論。山本艦長も「いざ実戦となったら、軍艦のお化粧よりも戦いが先だ。軍艦は散髪屋ではないし、ペンキを塗るのがその本職でもない」と副長の判断を是認した。なお山本五十六元帥について『飛行甲板から落ちそうになった飛行機を見た山本は赤城艦橋から飛び出し、飛行機の尾翼をおさえて転落を防いだ』という逸話が紹介されることがある。これについて奥宮正武は、「発着艦時の艦長は艦橋から離れない」「飛行機が転落しそうになった時には、飛び出して尾翼を押さえてやりたい気持ちだった」という山本の心情が誤って伝聞されたと指摘している。 1935年11月15日、赤城を三段式甲板から一段全通式甲板に変更する大改装が佐世保海軍工廠で開始される。
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三段式空母
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加賀は、ワシントン海軍軍縮条約の結果建造中止となった加賀型戦艦を改装した大型空母であった。 ワシントン海軍軍縮条約による主力艦の制限下、補助的艦種としての航空母艦の運用が研究され始めた。そんな中で行われた2隻(加賀、赤城)の改造ではあるが、当時日本海軍には空母の建造経験は小型空母鳳翔しかなく、戦艦や巡洋戦艦からの改装も日本海軍初だった。当初の計画では、全長715呎、最大幅110呎、基準喫水幅101呎3寸、喫水21呎9寸、排水量26,950頓、20cm砲10門、12cm砲6門、12cm高角砲12門、搭載機36、満載状態27.6ノットという規模だった。三層の飛行甲板や艦尾排煙方式などの多くの設備が後に改装・撤去された事実が示すように、航空母艦の黎明期にあって改装作業は模索の中で進められ、1928年(昭和3年)3月31日竣工した。 艦形の決定の際、同じく他艦種から改造されたイギリス海軍の二段式航空母艦フューリアスの影響を受けてか、赤城共々、三層の飛行甲板を持つ三段式(雛段式)空母案が採用された。上段を離着艦用、中段を小型機の発艦用、下段を大型機の発艦用とし、航空機の機種・用途に合わせ、甲板を使い分けることが考えられた。 しかし航空機の草創期に設計されたため、運用の実際や航空機の大型化を予測しきれず数々の問題が浮上することとなった。問題となったのは発着用飛行甲板の短さであり、特に中段の甲板で顕著に表れ、ここから艦上機が発艦することはできなかった。このため中段の飛行甲板には艦橋設備が作られ、艦載機の離艦は出来ないようになった(同じ構造の赤城も同様の理由で離艦は出来ないようになっている)。その艦橋も飛行甲板と船体に挟まれた構造のため搭載機の発艦・着艦統制が難しく、1932年(昭和7年)には甲板のエレベーター右舷に塔型補助艦橋と、飛行科指揮所を設けている。 また煙突の配置も問題となった。当時保有していた空母は鳳翔1隻しかなく、その運用から舷側に煙突を立てたままだと航空機の着艦操作に大きな影響を与えることが判明する。霞ヶ浦の技術研究所で模型を作ってさまざまな空洞実験を行ったがどうしても解決策を見出すことができなかった。そこで当時参考資料として検討されたのがイギリス空母アーガスである。これは煙路を両舷に沿って艦尾まで導き排煙するという方式をとっていた。当時の造船技術者達は赤城方式と実用性の上で比較するためにこの艦尾排煙方式を強く主張し、加賀の煙突は赤城とは別個のものとして作られることになった。『蓋しこの方が艦中央部に据ゑられた大砲その他諸計器の為には良好であらう。』と謳っていたが、実際には様々な問題が噴出した。ボイラーからの排煙が航空機の邪魔にならないようにと煙路を艦尾まで導いて排煙していたが、長大な煙路の重量・艦内容積の減少に加えて、煙路に隣接する区画の室内温度は40℃にも達したといい、高温により居住に耐えられないという大問題を引き起こした。また、艦尾から排出される煤煙が気流を乱して航空機の着艦を阻害することにもなった。この問題は赤城と同様の煙突方式を取ることで解決を試みようとされたが、折からの軍縮予算で実現されなかった。 なお、この時期の加賀の航空機搭載機数は60機である。 20cm砲10門を装備。これは近接する水雷部隊からの防御のためであり、艦隊決戦では重巡洋艦並の火力である。そのうち、連装砲二基四門は竣工後に中段の露天甲板に配置された。 同様に艦種変更を経た赤城が32.5kt を発揮したのに対して、加賀の速力は実速26.7kt(公称27.5kt) 止まりであった。巡洋戦艦として設計された赤城に対し、加賀は戦艦として設計されたためである。十二基の重油専燃罐と四基のタービンによる出力は9万1000馬力であった。戦艦は重防御で被弾面積の縮小のため船体を短く設計するが、その反面、重量と推進抵抗が大きくなり、高速力を発揮しにくくなる。また飛行甲板も短くなるので空母への改造は巡洋戦艦の天城型の方が適正だったのは否めなかった。
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