戦艦として
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1897年(明治30年)度の「第一、二期海軍拡張計画」により第二号甲鉄戦艦として、イギリス、クライド・バンクのジョン・ブラウン社で建造された。10月18日、第二号甲鉄戦艦は「朝日」と命名される。1898年(明治31年)3月21日、日本海軍は海軍軍艦及び水雷艇類別標準を制定し、1万トン以上の戦艦を一等戦艦と定義する。該当する4隻(富士、八島、敷島、朝日)が一等戦艦に類別された。8月18日、ジョン・ブラウン社で起工した。1899年(明治32年)3月13日、進水。1900年(明治33年)5月、西洋滞在中の秋山真之と広瀬武夫が竣工間際の朝日を見学している。また公試の帰りに座礁する事故があり、竣工が予定より約3カ月遅れたという。7月31日に竣工し、同日にイギリスを出発。10月23日、横須賀港に到着した。日本海軍としては竣工順で4隻目(富士、八島、敷島、朝日)の近代的戦艦となった。 1902年(明治35年)4月22日、広瀬武夫大尉は朝日水雷長兼分隊長を命じられた。広瀬は『朝日艦の歌』を作った。1904年(明治37年)からの日露戦争では第一艦隊第一戦隊として、旅順口攻撃、旅順港閉塞作戦、黄海海戦、日本海海戦に参加した。日露開戦時の朝日水雷長は、引続き広瀬武夫少佐であった。旅順閉塞作戦では朝日からも決死隊志願者が殺到するなど、本艦を含めて連合艦隊の士気は極めて高かったという。3月27日、広瀬は閉塞船福井丸を指揮して第二次旅順閉塞作戦に従事して戦死、のちに軍神と謳われた。8月10日の黄海海戦では、発射した弾丸が砲身内で早期爆発する膅発(とうはつ)に見舞われ、主砲の一部が使用不能となった。 1905年(明治38年)5月27日の日本海海戦当日、朝日は第一戦隊(三笠〈連合艦隊司令長官東郷平八郎大将〉、敷島、富士、朝日、春日、日進〈第一戦隊司令官三須宗太郎少将〉、龍田〈通報艦〉)の4番艦であった。同海戦勝利後の朝日と装甲巡洋艦浅間は、降伏したロシア戦艦オリョールの護衛を担当している。朝日はオリョールの乗組員を収容した。回航中の5月16日、戦闘で負傷していたオリョール艦長のニコライ・ユーンク大佐が死去、水葬に伏された。またオリョールの浸水が増したため、3隻(朝日、浅間、オリョール) は予定を変更して舞鶴港に入港した。後日、オリョールは戦艦石見と改名された。 1905年(明治38年)12月12日、日本海軍は艦艇類別等級表を改定する。戦艦の等級廃止にともない、日本海軍保有の9隻(富士、敷島、朝日、三笠、石見、相模、丹後、肥前、周防)が『戦艦』に類別された。 1910年(明治43年)12月、皇族軍人の伏見宮博恭王は大佐へ昇進するとともに、朝日艦長に任命された。のちに条約派として知られる堀悌吉も、朝日分隊長として本艦に勤務していた。1911年(明治44年)10月中旬以降、皇太子・嘉仁親王(後の大正天皇)が愛知県や広島県を行啓する。20日、皇太子は宮島で富士に乗艦し、以降豊後水道での艦隊演習や佐伯湾大入島視察などの行事をこなす。24日、朝日艦長・博恭王は富士を訪問し、皇太子と昼食を共にした。翌年3月、博恭王は巡洋戦艦伊吹艦長に任命され、朝日を離れた。 第一次世界大戦では1918年(大正7年)に第三艦隊第五戦隊の旗艦として、ウラジオストック方面の警備に従事した。同方面の警備には石見も加わっている。 1921年(大正10年)9月1日、日露戦争時の主力艦艇は海防艦に類別され、朝日も海防艦(一等)となる。
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