戦艦としてとは? わかりやすく解説

戦艦として

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/28 01:48 UTC 版)

朝日 (戦艦)」の記事における「戦艦として」の解説

1897年明治30年)度の「第一二期海軍拡張計画」により第二甲鉄戦艦として、イギリス、クライド・バンクのジョン・ブラウン社で建造された。10月18日第二甲鉄戦艦は「朝日」と命名される1898年明治31年3月21日日本海軍海軍軍艦及び水雷艇類別標準制定し1万トン上の戦艦一等戦艦定義する該当する4隻(富士八島敷島朝日)が一等戦艦類別された。8月18日ジョン・ブラウン社で起工した1899年明治32年3月13日進水1900年明治33年5月西洋滞在中の秋山真之広瀬武夫竣工間際朝日見学している。また公試帰り座礁する事故があり、竣工予定より約3カ月遅れたという。7月31日竣工し同日イギリス出発10月23日横須賀港到着した日本海軍としては竣工順で4隻目(富士八島敷島朝日)の近代的戦艦となった1902年明治35年4月22日広瀬武夫大尉朝日水雷長兼分隊長命じられた。広瀬は『朝日艦の歌』を作った1904年明治37年)からの日露戦争では第一艦隊第一戦隊として、旅順口攻撃旅順港閉塞作戦黄海海戦日本海海戦参加した日露開戦時の朝日水雷長は、引続き広瀬武夫少佐であった旅順閉塞作戦では朝日からも決死隊志願者殺到するなど、本艦含めて連合艦隊士気極めて高かったという。3月27日広瀬閉塞船福井丸指揮して第二次旅順閉塞作戦従事して戦死、のちに軍神謳われた8月10日黄海海戦では、発射した弾丸砲身内で早期爆発する膅発とうはつ)に見舞われ主砲一部使用不能となった1905年明治38年5月27日日本海海戦当日朝日第一戦隊(三笠連合艦隊司令長官東郷平八郎大将〉、敷島富士朝日春日日進第一戦隊司令官三須宗太郎少将〉、龍田通報艦〉)の4番であった。同海戦勝利後の朝日と装甲巡洋艦浅間は、降伏したロシア戦艦オリョール護衛担当している。朝日オリョール乗組員収容した回航中の5月16日戦闘負傷していたオリョール艦長のニコライ・ユーンク大佐死去水葬に伏された。またオリョール浸水増したため、3隻(朝日浅間オリョール) は予定変更して舞鶴港入港した後日オリョール戦艦石見改名された。 1905年明治38年12月12日日本海軍艦艇類別等級表を改定する戦艦等級廃止にともない日本海軍保有の9隻(富士敷島朝日三笠石見相模丹後肥前周防)が『戦艦』に類別された。 1910年明治43年12月皇族軍人伏見宮博恭王大佐昇進するとともに朝日艦長任命された。のちに条約派として知られる堀悌吉も、朝日分隊長として本艦勤務していた。1911年明治44年10月中旬以降皇太子・嘉仁親王(後の大正天皇)が愛知県広島県行啓する。20日皇太子宮島富士乗艦し、以降豊後水道での艦隊演習佐伯湾大入島視察などの行事をこなす。24日朝日艦長博恭王富士訪問し皇太子昼食を共にした。翌年3月博恭王巡洋戦艦伊吹艦長任命され朝日離れた第一次世界大戦では1918年大正7年)に第三艦隊第五戦隊旗艦として、ウラジオストック方面警備従事した。同方面警備には石見加わっている。 1921年大正10年9月1日日露戦争時主力艦艇は海防艦類別され朝日海防艦一等)となる。

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