戦艦アイオワを雷撃
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/28 10:10 UTC 版)
「ウィリアム・D・ポーター (駆逐艦)」の記事における「戦艦アイオワを雷撃」の解説
1943年11月12日、ウィリアム・D・ポーターは戦艦アイオワ(USS Iowa, BB-61)と合流した。アイオワには、カイロ会談とテヘラン会談に参加するため北アフリカへ向かうフランクリン・ルーズベルト大統領が乗艦していた。 アイオワと合流するためノーフォークを出港する際に、ウィリアム・D・ポーターは不幸な事故に遭遇していた。ウィリアム・D・ポーターが艦尾方向へ移動した際に、錨が停泊していた姉妹艦の手すりとボートダビッドを切り裂いてしまったのである。翌日には、波浪によってウィリアム・D・ポーターの甲板から爆雷1発が海中に落下して爆発した。その結果、Uボートからの魚雷攻撃だと誤解したアイオワと護衛艦艇が一斉に回避行動を行った。ただしウィリアム・D・ポーターとアイオワの航海日誌には、11月13日に爆雷の喪失やUボートの捜索について言及はない。双方の日誌に言及があるのは、ウィリアム・D・ポーターの第3ボイラーが配管故障を起こした結果、艦隊から落伍してしまい、第4ボイラーが稼働するまでその状態が続いたことだけである。 11月14日、ルーズベルト大統領の要望によって、アイオワの戦闘能力を実演すべく対空戦闘訓練が執り行われた。演習は標的として多数のバルーンを放って行われた。バルーンの多くはアイオワの対空砲手によって撃ち落とされ、少数のバルーンはウィリアム・D・ポーターの方へ流れて同艦によって撃墜された。また、ウィリアム・D・ポーターと他の護衛艦艇はアイオワを敵艦に見立てて雷撃を想定した訓練を実施した。ところが、アイオワに向けられていたウィリアム・D・ポーターの第2魚雷発射管から突然魚雷1本が発射されたことで、訓練は混乱に陥ることになった。 ウィリアム・D・ポーターは直ちにアイオワに対し魚雷接近を知らせようとしたが、無線封止の指示を守って発光信号で連絡を行った。しかしウィリアム・D・ポーターは当初魚雷の進路を見誤り、さらに魚雷を海に放ったということよりもウィリアム・D・ポーターが後退しつつあるという内容の誤ったメッセージを繰り返した。危機的な状況に、ついにウィリアム・D・ポーターは無線封止を破り、アイオワに魚雷が接近しつつあるという警告を暗号を用いて発信した。アイオワは魚雷を回避すべく急転舵を行った。その間ルーズベルト大統領は魚雷が接近しつつあるという脅威を認識し、様子が見られるようシークレットサービスに彼の車椅子を戦艦の端へ移動させるように頼んだ。それから程なくして、魚雷はアイオワの約3,000ヤード後方の航跡の中で爆発した。アイオワに損害はなかったものの、伝説によれば、ウィリアム・D・ポーターがある種の暗殺計画に関係していたかもしれないという懸念から、アイオワは主砲をポーターに向けたという。これらの事件は14時36分の魚雷発射から14時40分までの約4分間に起こったことであった。 事件後、ウィリアム・D・ポーターと乗員は事件の取調べのためにバミューダへ向かうように命じられた。ルーズベルト大統領はこの出来事を事件ではなく事故として扱うように介入したものの、アイオワに魚雷が発射されないように魚雷の雷管を外していなかった過失によって水雷分隊長(Chief Torpedoman、CTM(AA))ロートン・ドーソン(Lawton Dawson)には労働刑が課せられた。インターネット・ミームで語られることとは対照的に、艦長のウォルター少佐は事件によって更迭されることはなく、1944年5月30日までウィリアム・D・ポーターの艦長職に留まった。彼は後に他の艦でも艦長を務め、最終的には少将に昇進している。ウィリアム・D・ポーターは1943年11月16日から23日までバミューダに滞在したが、艦の日誌にはインターネット上に流布しているような海兵隊員が待機していたことや乗員全員が「逮捕」されたということについて言及はない。 11月25日にノーフォークへ戻ったウィリアム・D・ポーターは、太平洋方面へ送られることになった。12月4日に出発したウィリアム・D・ポーターはトリニダード島を経由して12月12日にパナマ運河へ到着した。運河を通過して19日から21日までサンディエゴで過ごし、アリューシャン列島での活動で必要とされる防寒服やその他の装備品を積み込んだ。
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